このアルバム、マニアックではあるが、Teddy Edwardsというジャズ・サックスプレイヤーがブルージーさを前面に出したアルバム。マイナーやメジャーのブルースが殆どだけどスタンダードも演ってる。ただ、エドワーズ自体がグロールする様な僕の苦手なホンク・テナーでないのでとても聴きやすい。
そう、僕はコテコテのブルースは苦手だ。正直こういうアルバムも本当は好きではない。その割には聴きやすいという事だ。
メンバーは、エドワーズのテナーに、Gerry Wiggins(org)、Leroy Vinnegar(b)、Milt Turner(ds)。
でも、このアルバムを聴いてるうちにニューヨークで過ごした武者修行時代を思い出した。必死で食らい付いて仕事を得ながら、色んなコミュニティに溶け込もうと必死だったあの頃。日本ではコミュニティってのはそれ程重要ではないけど、向こうで仕事取るにはコミュニティに属すのは必要不可欠。
ジャズを演るんだったら、そりゃ黒人のコミュニティに入らなきゃ。僕はたまたまエヴリン・ブレイキー(vo)という黒人女性ボーカリストのバンドに入れたので、そこから一気に様々なコミュニティに友人が出来た。黒人は勿論、ラティーノ、更にヨーロピアンまで。
しかし、僕はあくまでそれぞれのコミュニティの中では「お客さん」的な立場だったと思う。勿論、皆んな優しく接してくれたけど。でも、黒人のコミュニティにガチで溶け込もうと思ったら、黒人と結婚してハーレムに住むくらいじゃなきゃダメなんだと思う。ゴスペルにゾッコンな人は本当にそうしてたし。
そう、このアルバムの様にブルージーなオルガンを聴くと、ゴスペルを思い出す。ジャズミュージシャンの多くはゴスペルを経験してるし、黒人のポップス歌手だってそうだ。ホイットニー・ヒューストンの張り上げた声を聴くと鳥肌が立つし、その出所はゴスペルだとすぐに分かる。でも一度、ブルックリンの黒人教会で結婚式で演奏する仕事をした時は、知らないゴスペルの曲ばかり譜面もなしにやらされて地獄を経験したってのも有るけど、単純に「宗教が違う」という感覚が強く残ったのを覚えている。違う…と言っても、自分は無宗教なので、もし、そのゴスペルに感動を覚えたり、コミュニティに飛び込みたいと思えば、キリスト教徒になれば良い事なのだけど、それは自分ではないと感じたのだ。
ジャズを演る上で確かにブルースは欠かせないので勉強は必要だと思う。でも、決定的に黒人音楽としてのジャズに深く入り込めないのは、ディープな文化や宗教観までも彼らと完全に共有するとこまで行けないからだ。共有するには、やはり彼等と生活を共にする必要が有るのだと思う。
でも、僕には既に日本人としてのアイデンティティが有ったわけで、それをする事で自分ではなくなる感覚が有ったんだと思う。ジャズの良いところは、そんな人間をも幅広く受け入れてくれるとこなんだと今更ながら強く思う。だから、「ジャズは黒人のものだ!」という急進的な発言をするミュージシャンが当時から凄く嫌いだったんだと思う。
僕も東京に住み始めて25年になろうとしている。生涯で最も長居している。関西弁は抜けないけど。若い頃以上に自分のアイデンティティは揺るぎないものになり、今更黒人に憧れたり、逆に、やれクールジャズだ!と白人に憧れても、あぁはならないのは分かっている。
随分前からこのブログでも言っている事だけど、日本人には日本人のジャズが出来る筈。クソダサイもんじゃなく、自然と溢れ出す…って意味でね。だから、勉強は続けるけど、ただ真似をするのではなく、カルチャーショックを受け、それ風な事をやってみて、それでも滲み出て来るものが、自分が日本人として経験して来た人生の音であればそれで良いのだと思う。
それを思い出させてくれたこのアルバムに感謝!
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