
散歩する時はいつも公園の中を通り抜けます。
その一角にシニア向けの運動用具コーナーが作られています。
鉄棒や背筋用ベンチやコの字型の平均台など、5種類くらいあります。
そのコの字型の上を歩くのが日課?になってしまいました。
年寄りは身体のバランス感覚も鈍くなります。
そこを歩いてちょっとでもその衰えを防ごうという魂胆です。
いまのところ一度も落ちていませんが、いずれ落ちる日が・・・・。
そのコーナー、シニアではなく子どもたちがよく遊んでいます。
わたしがよろよろ歩くそこを走って渡って、さすがに身軽。
見ていると色んな遊び方を自分で考えて楽しんでいます。
そういう子どもたちには屈託というものがまるで感じられません。
自分にもそういう時代があったんだよな~、はるか昔に・・・・。
近頃、読んだ本に、こんなことが書いてありました。
教職員に国歌の起立斉唱を義務づける条例にちなんでの話です。
もともと国というものは自然物ではなく、作り物である。
子どもは国についてあれこれ考えたりはしない。
だから漫然とした気持ちのまま国歌を歌い、国旗に敬礼する。
ところが大人になると国は擬制だと知るようになる。
だから、自然に対する素朴な感情を、国歌や国旗に抱けなくなる。
だが、この屈託は市民的に成熟するための必須の過程である。
儀式で起立斉唱しない人たちは、まだ「屈託」のうちにあるのだろう。
それは処罰することではなく、気長に成熟してもらうことを待つしかない。
といったことを、屈託のない子どもたちを見ていて思い出したというわけ。
とすれば日々、屈託を抱えて生きているわたしもまだまだ未成熟人間。
自然のように在るがままに生きられるのが真のおとな・・・・。
わたしは死ぬまで偽のおとなでいるのでしょう。
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