結~つなぐ、ひらく、つむぐ~

身近な自然や社会との関わりを通して、マイペースで、新たな自分探しに挑戦しながら、セカンドライフ、スローライフを楽しむ。

琉球国中山王陵!…浦添ようどれ

2014-01-18 | 観光

 浦添市仲間の「浦添ようどれ」を訪ねました。浦添ようどれは「極楽寺」ともいわれ、英祖王が築いた琉球国中山王の陵墓です。「浦添グスク・ようどれ館」には、「浦添城跡」や「浦添ようどれ」に関する資料を展示してあり、墓室の様子を再現した一室もあるので、立ち寄って予備知識を得ると、理解が深まります。浦添グスク・ようどれ館098-874-9345)。「浦添城跡」「浦添ようどれ」のくに、浦添小学校、浦添中学校、当山小学校、浦西中学校があります。

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「琉球国中山王陵 浦添ようどれ…琉球王国初期の王の墓で、極楽陵(ごくらくりょう)ともいいます。咸淳(かんじゅん)年間(1265~1274年)に英祖(えいそ)王が築いたといわれ、その後、14世紀後半~15世紀前半に石垣がめぐらされました。さらに1620年には、浦添出身の尚寧(しょうねい)王が改修し、自らもここに葬(ほうむ)られました。ようどれの頂(現在地)から墓庭へは、まず急坂の石畳道を下り、かつてはトンネル状の通路であった暗(くら)しん御門(うじょう)を通って二番庭にでます。そして中御門(なーかうじょう)と呼ばれるアーチ門をくぐり抜けて、墓室のある広い一番庭(なー)にいたります。墓室は岩盤に大きな横穴を二ヶ所掘り、前面を石積みで塞(ふさ)いだつくりです。西室(向かって右側)が英祖王、東室(左側)が尚寧王の墓といわれています。募室の中には、中国産の石で作られた骨を納めるための石厨子(いしずし)があり、仏像などが巧みに彫刻されています。去る沖縄戦で、浦添ようどれの石積は大きく破壊(はかい)されましたが、戦後、琉球政府によって募室が修復され、平成12年~17年には墓庭の石積が復元されました。「ようどれ」とは琉球の言葉で夕凪(ゆうなぎ)のことで、「ユードゥリ」と発音します。」

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階段を下りて行きます

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「尚裕氏の浦添ようどれ復元への功績を称える…琉球王国尚王家の陵墓・浦添ようどれは、国宝候補とされながらも沖縄戦で破壊され、その復元が大きな課題でありました。浦添ようどれを含む浦添城跡一帯が平成元年に国史跡に指定されたことから、本市が整備を検討していたところ、はからずも尚家第二十二代当主・尚裕氏から、3,629平方メートルの陵墓を浦添市民に無償贈与する意向が伝えられ、平成7年12月19日、贈与契約が交わされました。尚裕氏の英断をうけて、本市では平成9年から文化庁補助で復元工事に着手し、8年の歳月をかけて、ここに静謐な雰囲気の琉球王陵を蘇らせることができました。尚裕氏は復元工事をまたずして葬去されましたが、復元された浦添ようどれが再び戦渦に遭うことなく、尚裕氏の功績とともに永久に残ることを祈念します。平成17年4月29日 浦添市長 儀間光男」

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昭和9年頃の暗しん御門

「昭和9年頃の暗しん御門…暗しん御門は、加工した岩盤と石積みでできたトンネル状の通路のことです。薄暗くひんやりしていて、地下通路を通って『あの世』に行くような雰囲気でしたが、沖縄戦で天井の岩盤は崩れてしまいました。」

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石獅子

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