浦添市仲間の「浦添城跡」を訪ねました。「浦添城跡」は国指定史跡で、城内の数カ所で発掘調査が行われ、城壁などの復元工事が進められています。「浦添城跡」の手前にある「浦添グスク・ようどれ館」には、城の古写真や発掘調査成果のパネル、出土遺物などが展示され、浦添グスクと浦添ようどれの歴史を学ぶことができます。
01-0120-1232
03-0120-1233
05-0120-1258
「国指定史跡 浦添城跡(うらそえじょうあと) 平成元年8月11日指定…浦添グスクは、首里城以南の中山(ちゅうざん)王城として知られています。発掘調査から、十四世紀(せいき)頃の浦添グスクは、高麗系瓦(こうらいけいかわら)ぶきの正殿(せいでん)を中心に、堀(ほり)や石積(いしづ)み城壁(じょうへき)で囲まれた巨大なグスクで、周辺には王陵(おうりょう)・寺院・大きな池・有力者の屋敷・集落などがあったと考えられています。後の王都(おうと)首里の原型がここでできあがっていたようです。王都が首里に移された後、浦添グスクは荒廃しますが、一五〇〇年前後から一六〇九年の薩摩藩(さつまはん)の侵攻までは浦添家の居館(きょかん)となりました。さる沖縄戦では、日米両軍の激(はげ)しい戦闘(せんとう)により、戦前まで残っていた城壁も大部分が破壊(はかい)されましたが、これまでの発掘調査によって、石積み城壁の基礎(きそ)や敷石遺構(しきいしいこう)、建物跡などが良好に残っていることが確認されています。浦添市では現在、史跡浦添城跡復元整備事業を進めているところです。 平成二十年十一月二八日 浦添市教育委員会」
06-0120-1303
07-0120-1240
発掘調査
10-0120-1235
「伊波普猷(いはふゆう)の墓…伊波普猷は、明治九年に那覇に生まれました。沖縄尋常中学(首里高校の前身)を退学処分された後、本土に渡り三高(後の京都大学)から東京帝国大学に進んで言語学を修めました。東大在学中から、浦添が首里以前の古都であったことを最初に論じた『浦添考』など、すぐれた論文を発表しています。帰郷して県立図書館長となった伊波は、歴史研究のかたわら、琉球処分後の沖縄差別で自信を失った県民に自信と誇りを回復する啓蒙活動を行います。大正十四年に再び上京していますが、戦争で米軍に占領された沖縄の行く末を案じつつ東京で亡くなりました。その後、伊はの研究にゆかりの深い浦添の地に墓が作られ、永遠の深い眠りについています。浦添市教育委員会」
14-0120-1238
伊波普猷の墓
15-0120-1243
サクラの蜜を吸うメジロ
16-0120-1244
和光地蔵尊
17-0120-1245
浦和の塔
19-0117-1700
「浦和の塔…浦和の塔は、沖縄戦で散華した人々を祀る慰霊の塔です。一九五二年に市民の浄財と本土土建会社の協力によって建立されたもので、納骨堂には浦添城跡を中心に市内各地で散華した軍人や民間人五、〇〇〇人余柱が安置されており市では毎年十月には、慰霊祭を催し英霊を慰めています。 浦添市役所」
21-0120-1248
地蔵菩薩
22-0120-1247
23-0120-1249
ガマの中
24-0120-1250
25-0120-1251
「この慰霊塔は 西暦一九四五年昭和二十年の 沖縄戦で護国の神と殉した忠霊の冥福を祈り併せて再び浸すまじき戦争えの道と地上永劫の平和の祈りをこ西暦一九五二年昭和二十七年三月浦添村民の浄財により建立され 更に一九六三年三月昭和三十八年南方同胞援護會の援助で補修工事がなされた 塔名は津津浦浦の平和の守護神として忠霊の照覧鎮座を願い『浦和の塔』と命名したものである。軍属及び民間人五千余柱を安置し毎年十月に村主催の慰霊祭を行っている。一九六三年三月 浦添村」
26-0120-1251
浦添王子遺跡
28-0120-1239
城壁
29-0120-1256
トゥン
30-0120-1253
展望台
32-0120-1255
広場からの眺望
34-0117-1728
浦添城の前の碑
35-0120-1300
「浦添城の前の碑…この石碑は、一五九七年に浦添グスクと首里を結ぶ道路を整備した時の竣工記念碑です。石碑の表に平仮名の琉球文、裏に漢文で、尚寧王の命により国民が力を合わせて岩を刻んで道路をつくったことが記されています。碑首は、一六世紀の琉球王国の象徴文様である日輪双鳳雲文(にちりんそうほううんもん)で飾られています。石碑の前の大きな石は、『馬ヌイ石』と呼ばれ、馬に乗るための踏み台といわれています。もとの石碑がさる沖縄戦で台座もろとも破壊されたため、一九九九年に復元しました。浦添市教育委員会」
37-0117-1729
カガンウカー
38-0117-1730
39-0117-1732
石畳道
40-0117-1733
カラウカー
41-0117-1733
43-0117-1735
クチグヮーガマ
「クチグヮーガマ…洞穴の入口が人間が口を開いたかたちに似ていることからこの名がついたという。内部は広く、戦時中は住民の避難壕(ひなんごう)となった(仲間六班の壕)。浦添グスクには、こうした住民避難壕や旧日本軍陣地(じんち)壕といった戦跡(せんせき)が数カ所に存在している。」
44-0117-1736
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます