「沖縄平和祈念公園南口」から海岸側に、「沖縄師範健児の塔」があります。広い駐車場は閑散としていて、他に車が1台とまっているだけでした。パーラーや売店らしい建物も閉まったままです。観光客や修学旅行生で混んでいる「ひめゆりの塔」に比べ、「この違いは何だろう」と思いました。 近くには、「風部隊の碑」「南冥の塔」などがあります。
「沖縄師範健児の塔」
入り口から階段を下りていくと広場があり、「沖縄師範健児の塔」が見えます。塔の台座(前方・左・右)には、戦没者の名が刻まれていました。
塔の由来などを記した石碑
塔左側には石碑があり、次のように記されています。
……沖縄師範健児之塔の由来
この塔は、1945年の沖縄戦で散華した沖縄師範学校男子部の野田校長以下職員・生徒の御霊を祀ったものである。
鉄血勤皇師範隊は、3月31日沖縄守備軍の命令によって編成された。以来、同隊は軍と共に首里戦線からここ摩文仁の地まで勇戦奮闘し319柱の職員・生徒を失った。誠に痛ましく断腸の思いである。……
……鉄血勤皇師範隊の編成
本部(隊員16名 戦死13名)
師範隊の指揮、軍司令部との連絡調整、食料の調達、および師範隊の炊飯を担当
情報宣伝隊(隊員22名 戦死9名)
千早隊とも呼ばれ、軍の情報や戦果の宣伝活動、占領地へ潜入して地下工作活動など
斬込隊(隊員57名 戦死46名)
菊水隊とも呼ばれ、敵の背後斬込みによる後方攪乱、軍司令部の歩哨勤務、負傷者の搬送など
野戦築城隊(隊員243名 戦死122名)
陣地構築や対戦車壕の敷設、主要道路や橋梁の補修や阻絶、弾薬や食料等の搬送など
特別編成中隊(隊員48名 戦死36名)
野戦築城隊から選抜して編成され軍司令部護衛、急造爆雷による対戦車攻撃など
現地入隊(隊員75名 戦死64名)
19歳に達した学友が3月1日現地部隊に入隊
……沖縄師範学校沿革
沖縄師範学校は1880年(明治13年)に創立された国立の教員養成専門学校である。同校は廃藩置県後の沖縄の教学と文化の根源となり、また沖縄の近代化に最も貢献した学園であった。
創立以来六千有余の人材を世に送り、これら人士は教育界はもちろん政治、経済、文化のあらゆる面で先導的指導者として活躍した。
不幸なことに1945年(昭和20年)の沖縄戦で校地・校舎はことごとく灰燼に帰し、在校生の75パーセントが砲弾に倒れた。その上戦後の日本本土との行政分離によって光輝ある学校の歴史に終止符をうった。……
鉄血勤皇隊には、沖縄全土で1780人が従軍、890人が戦死しました。戦後、各校ごとにゆかりの地に健児之塔が建立されています。
「平和の像」
塔の右側には、3人の少年の像「平和の像」が建立されており、「平和・友情・師弟愛」を象徴しています。台座の碑文には次のように記されていました。
……碑文
昭和20年3月21日、第二次世界大戦の最中、沖縄師範学校全職員生徒は、軍命により、第32軍司令部の直属隊「鉄血勤皇師範隊」として、軍に動員された。
然るに同年6月22日、南西諸島方面軍最高司令官牛島満中将か゛自決するに及び、師範隊は解散するに至ったが、この間、総員480名中300有余名が守備軍と運命を共にしたのである。ここに、生存者達の手によって「慰霊の塔」が建立されたのである。更に、大田昌秀・外間守善編「沖縄健児隊」の出版並びに同名映画の上映祈念事業として、廣川江湖の有志の方々のご声援の下に、この「平和の像」は建てられたのである。若い身命を捧げて散った師友達の冥福を祈ると共に、それらの尊い殉死によって された平和への希望を永久に伝えるべく生存者達は心から祈るのである。……
「平和の像」後方には、学徒達が自決した壕があり、火炎放射で焼かれた黒焦げの岩肌が見られます。
学徒達が自決した壕
壕内部
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