SH快特みやっち

旅する鉄ちゃんが気が向いた時に作品を上げるページ。

被災地を巡った旅について

2011-05-03 00:10:00 | ノンジャンル
おはこんばんちわ

4月15~18日までの被災地を巡った旅。
ようやく書き終え、5月3日0:00から順にリリースしました。

今回は長編として、プロローグ(前乗り)・本編(新地編・田老編・陸前高田編)・エピローグ(撤収)に分かれていて、通常投稿とは逆で、プロローグをアタマに順に並べています。

読むか読まないかはみなさんの自由です。
被災地へ行ったことがある人には、今回の記事で伝えたいことが少しは解ってもらえるかと思います。
でも、現地へ行ったことが無い人が読んでも、テレビの映像と同じ様にしか伝わりません。
それでも読んで何か伝わる人やコメント・拍手をよこす人は、自分は上辺だけの都合のいい人間なんだと思ってください。

ほんと自分の目で見んとありえんぐらい伝わらんから。


ちなみに、容量が大きいのでPCでご覧ください。
ケータイでは全てを表示できません。

プロローグ

2011-05-03 00:04:00 | 長編
第ゼロ日目、4月14日(木)
羽田へ前乗りです。


仕事終わりで名古屋駅へ直行し、終車ののぞみ66号に乗り、品川乗換で京急空港線大鳥居へ。





この日は大鳥居の東横イン泊です、節電のため看板は点いていません。


ミッドナイトで泊まろうかと思っとったけど、残室数が少なかったから最初から予約を入れておきました。


どうでしょう班、ホテルでのワンシーン風。

軽くシャワーを浴びておやすみなさい。

翌日羽田から飛んで本編突入です。


本編 ~ 4月15日 新地編 ~

2011-05-03 00:03:00 | 長編
4月15日(金)


大鳥居の朝食は6時からなので、全力で食べて6時半過ぎの空港行きで空港へ。


仙台行き満席です。


飛行機は駐機場の真ん中にいるので、バスに乗っていきます。

ポケモンジェットが見えますな。
一回このワイドバスに乗ってみたかったんだよねぇ。
でもまさかこんな形で乗ることになるとはねぇ。


ジェット機にタラップで乗るのも初めてです。
正式にはタラップって言わないんだよねぇ、海外じゃタラップって言っても通じないよ。


それじゃあ仙台へ向けて、ひやうい~ぐを~!




どの辺を飛んどるのかよく分からんうちに船岡ら辺を飛んどった。
多分安達太良とか蔵王の辺りを飛んだんじゃないかねぇ?

そして、海側から仙台空港に着陸。
着陸直前、瓦礫の中を走る路線バスを見たら涙が溢れてきました。

着陸後、スポットへ移動中には滑走路脇で飛行機に向かって敬礼している警備の人を見たら再び涙が出てきました。

まだ小さかった頃、初めて飛行機に乗ったのが小牧から仙台でした。
しかも、東亜国内航空、JASの前身です。
だから仙台空港が閉鎖になった時はショックを受けたけど、再開した時には嬉しすぎて泣きました。
そんな思い出もあるから、仙台空港の滑走路に降り立った時はいろんな思いが込み上げてきました。


仙台空港は到着口の一ヶ所以外は空港ビル自体が使用不可なので、タラップで乗降してビルと飛行機の間はバスに乗っていきます。
本来の出発ロビーの入口は損壊しています。



手荷物受取り場を半分に仕切って、左を出発、右を到着に使っています。
で、ビルまでバスなんかに乗せられとるもんだで、名取行きの代行バスに乗れなんだ。
さりげなく積み残されました。
仕方なくタクシーで名取駅へ、3080円は痛い・・・、だからタクシーは嫌いです。


結局名取駅にはバスより早く着きました、あっちも直行なのに。


ホームで世間話をするおばちゃんたち。
いたって日常だけど、時刻表の臨時ダイヤのお知らせが非日常です。
そして、名取から常磐線の電車に乗って、最初の目的地新地町へ向かいました。


節電のため昼間は車内灯はトンネル内以外は消灯しています。



車内広告は何故かSuicaのポスターが各車に1枚あるだけ。

常磐線は亘理までで相馬までは代行バスに乗換です。





各停便と快速便があります。

亘理駅から国道へ出るまでは至って普通な感じがしたけど、国道へ出たらそうでもなかった。
国道はいたるところで亀裂が入ったり路肩が崩壊していて、中には交差点の真ん中で亀裂が入って凸凹していたところもありました。


代行バスの新地駅は新地町役場前です。
バスを降りていきなり隆起した歩道をお見舞いされました。


国道から駅へ行く道に被災者・関係者以外立入禁止の看板があったんだけど、近くで作業してる人に一般人は入ったらマズイですかみたいな感じで聞いたら、邪魔にならんければいいよ的な感じだったから邪魔をしないように駅へ向かいました。

道の脇には車がベコベコになって土砂にまみれとったり、泥だらけの炊飯器が転がっとったり。





コカ・コーラの自販機も転がってました。

何故か車のバンパーだけ転がっとるし。

あとね、ふしぎの海のナディアのビデオがぽつんと落ちていたのね。
たぶん幼稚園ぐらいの子がお母さんと一緒に見てたんじゃないかねぇ、そんなことを思うとやるせなかったです。













そんなこんなでいろんな「日常」がみやっちの足を止めさせるもんだから、新地駅に着く頃には11半を回っとるもんだから全力で流された車両と駅を撮ったわけで。
駅構内の状況はやはり映像で見ただけではわからないぐらいひどい状態でした。












結局駅を後にしたのが12時ちょっと前、亘理行きのバスが12:07だからこれまたBダッシュでバス停へ戻ったら3分ぐらい遅れてきたからセーフでした。

途中駅から代行バスに乗る時は、運ちゃんから乗車証明をもらって亘理駅の窓口で通しのきっぷを発券してもらいます。


途中で爆睡して仙台に着きました。

盛岡まではJRがまだ運休中だから高速バスで行きます。

新幹線乗換口が閉まっているのが違和感ありまくりです。



駅ビルも修理中です。

宮交高速BTへ行ったら盛岡行きの乗り場は長蛇の列。

でもなんとか乗れました。

岩手県交通のくせにエアロかいな。

通常アーバン号は仙台側は一番町にも停まって、盛岡側は盛岡BC始発終点だけど、当分は一番町は通過で盛岡駅始発終点での暫定運行です。
途中、中尊寺PAで休憩したけど、本線はそこら中凸凹しとったから、いくら制限がかかっとるとは言ってもちょっと危ない気がしました。


結局盛岡駅には7分の延着でした。

久慈行きのこはくさんに乗り換えるんだけど、1時間近くあったから駅前のぴょんぴょん舎で盛岡冷麺を食べてきました。




再び西口へ戻ってこはくさんで久慈へ行きます。



こはくさんは盛岡~九戸間は高速を走って、途中二戸PAで休憩です。

久慈駅には定時の到着です。


今日の宿は県北バス久慈駅前バス停の目の前にある久慈第一ホテルです。

ネットで探しても沿岸地方は軒並みダメだったけど、唯一久慈で泊まることができました。
久慈も港があるけど、駅周辺は2・3キロ離れているから直接の被害は無かったみたいです。


とりあえず、豚とんていうラーメン屋で夜ごはん食べて、そのあと駅周辺でちょこっと撮影しました。


でもって撮影してた時に思わぬことに気が付いてしまったのです。
明日は陸中野田~小本を県北バスでつないで、田老へ寄って宮古へ行く予定です。
しかし、明日は土曜日。
県北バスは土日祝運休です。

・・・。

げ~!!!

やっちまったぁ~

部屋へ戻って明日の作戦を練り直しです。
JRバスの白樺さんか県北バスのこはくさんで来た道を戻るか、二戸行きのスワロー号か、八戸線で八戸経由かの三択だけど、スワロー号は運休中、八戸線は時間かかるから問題外。
てことで、朝一の白樺さんで戻ることにしました。

この夜この旅で唯一の余震を感じました。
余震は何回かあったみたいだけど、感じたのはこの一回だけでした。


てことで、田老編に続く。


本編 ~ 4月16日 田老編 ~

2011-05-03 00:02:00 | 長編
4月16日(土)

そして朝起きたら7:13・・・。
白樺さんは6:55。
やっちまったぁ~。
7:25に県北バスのこはくさんがあるけど、いくらバス停がホテルの目の前だっちゅうても流石に無理だから、9時の白樺さんに乗ることにしました。
こんなことなら朝食付きにしとけば良かった。

白樺さんは三鉄からの接続を取ったのか、5分延発です。




途中葛巻高原で休憩します。

まだ雪があります。

白樺さんで直行しても106急行まで1時間半ぐらいあるから、沼宮内でIGRに乗り換えることにしました。

葛巻に着く前から雨が降りだしたけど、沼宮内に着いたらちょっと強くなってました。
沼宮内にはほぼ定着だったから、乗り継ぎに40分ぐらい時間があったけどなんもやることがなかった。
11:24発は沼宮内折り返しです。


そうして、ただこはくさんと白樺さんを乗り比べただけな感じで、ようやく盛岡に着きました。


それでもまだ時間があるから東口の立ち食いそば屋はやてでじゃじゃ麺を食べてきました。


やっとこ106急行に乗って宮古へ向かいます。

いつかは山田線と106急行を乗り比べようと思っとったけど、まさかこんな形で106急行に乗ることになるとは思わなんだ。
バスは山田・岩泉線を撮りに何度か通った道を走るので、車窓には懐かしい風景が流れていきます。
こんな時だけど一応撮影ポイントの状況も確認しながら乗ってました。
途中おなじみのやまびこ館で休憩です。


茂市を過ぎたらもうすぐ宮古です。
千徳を過ぎて市街地へ入ったら、なんか違和感がある。
津波の被害を受けたはずなのに、被害を受けた気配を感じない。
だけど、道路とかは泥とかで汚れとる。

宮古駅に着いても、信号は機能しとるし人も普通に行き交っていたから、ほんとに宮古か?って思ったぐらいでした。

三鉄の駅前には鯉のぼりが泳いでいます。

宮古に着いたものの、三鉄は16:05発で1時間近くあったから、山田線の釜石方の様子を見に行くことにしました。

駅前からニッポンレンタカーの通りを歩いて一つ目の信号まで行ったら、なんか車の走り方が変なのね、特に脇道から右左折する車がね。
よくよく見渡すとこの通りの信号機は全部点いてないのよ。

そりゃあ車の動きも変になるわ。
おまけに電柱も傾いとるし。


山田線の踏切まで行って錆びた線路を撮ってたら、また違和感を感じたのね。
線路脇に車とか家の一部があり得ん風に転がっとるのよ。

ようやくね悟りましたよ、鈍感ですいませんね。
やっぱり津波に流されとるんだよ。
線路の先に車止めが見えたから、線路沿いの道を歩いて行ってみました。
団地の先で閉伊川の堤防に登ったのはいいけど、目の前の光景に愕然としました。

車止めの先は第34閉伊川橋梁と共に線路ごと流されてました。






さら言うと、線路を挟んで南側の団地は被害がないのに、北側のR106号跨線橋と山田線と閉伊川堤防に囲まれた地区だけが被害を受けているのです。






船も打ち上げられ、建物はどこを見ても「解体OK」と書かれ、車にも「移動OK」と書かれています。






近所の憩いの場であったであろう居酒屋さんも。


アパートの外壁もはがれ落ちていました。



何かの大会のカップだと思うけど、瓦礫の中にポツンと残っているのがなんだか切ないです。

いくら誰もいないからっていっても、被災した家の内部を撮るのはちょっとためらったんだけど、目の前の状況をありのままに記録するために撮るんだって自分自身を無理矢理納得させて撮りました。


いつものことながら時間切れで、ダッシュで駅へ戻りました。

当分の間特別運賃なのできっぷは全部窓口発売です。
田老まで買ったら、運賃変更印が押された硬券が出てきました。

国鉄時代によく見られた運賃変更の硬券を、この時代に自分が買うとは思いませんでした。


閉信は使っていないので、出発合図は旗を使います。
夜はカンテラね。
今は小本までを一閉塞としているので、途中の交換設備のある駅も閉信は死んでます。
ようは、岩泉線と同じ状態ですよ。

運転再開時は徐行運転(多分25か35km/hだと思うけど)だったから、小本まで一時間以上かかってたけど、今は数分遅いだけでほぼ通常の運転時分になってます。
それでもまだ路盤が安定していないのか、軌道の歪みが多少見られました。

宮古から約20分、時間通りに田老に着きました。

一の渡・佐羽根は内陸を走っているから沿岸の様子は分からなかったけど、田老に着いた時に見た景色はやはり衝撃的でした。
仙台空港周辺、新地町周辺、宮古、田老と見てきて、それなりに心の準備もできてきたからだんだん衝撃も和らいできていました。
仙台空港に着陸する時なんてのは多少の心の準備もしてあったけど、それを遥かに上回ってピュアな(?)みやっちの心には重すぎる衝撃だったから。
それを考えれば、衝撃的な惨状には変わらんのだけど、慣れるのとは違うけど徐々に気持ちに余裕ができてきたんだと思うのね。
まあ、一日一日を復興に向けて頑張ってる被災地の人達を見てきて安心したっていうのかな?多分そんな気持ちだと思います。
でもね、なんでも慣れてきた時が一番怖いんだよ・・・。

田老は日本一の防波堤があった町です。
でも、それを乗り越えて街を呑み込みました。



田老でもあちこちに「日常」が散乱しています。
駅前の観光センターには瓦礫に紛れて三鉄の月報もありました。




田老で一番やるせなかったのは、泥にまみれた昭和天皇の写真集です。

最初閉じた状態で落ちていて、通りすぎる時に一瞬表紙の模様が菊の御紋に見えて、あれ?と思いながらよく見たらそれでした。
昭和天皇と皇太后様の仲睦まじい御写真になんだか切なくなりました。

餅屋さんも取り壊されます。



津波が来たであろう時間で止まったままの時計がありました。


帰りがけにすれ違った自衛隊員とあいさつを交わしました。
「こんにちは」と言ったあとには自然と「ご苦労様です」という言葉が出ました。

去り行く彼らの後ろ姿に大きな誇りを感じました。

結局田老でも時間切れで、ダッシュで駅へ戻りました。
帰りは普通に整理券を取って降りる時に精算です。
行きのきっぷはもらってこうかと思ったけどちょっと気が引けたから、帰りに宮古で一の渡までのきっぷでも買ってけばいいかって思ってもらってきませんでした。
ちなみに行きのきっぷの券番は7600番でした。

でもって宮古に着いて、三鉄エコバッグを買うついでにきっぷについて聞いてみました。
以下、みやっちと窓口のお姉ちゃんのやり取りです。
みやっちが鉄ちゃんになる瞬間をご覧ください。
(注)みやっちは全区間・全券種硬券で発券していると思っていたのでその体でご覧ください。

(み)今って往復券って発券してます?

(窓)発売してますよ~、ただ、手書きですけど。

(み)えっ?!まぢっすかぁ~!
えっと~、片道券は全区間硬券ですよねぇ?

(窓)田老と小本は硬券なんですけど~、他の区間は穴開けるタイプなんですよ。

(み)え~!、そうなんスかぁ!
じゃあですねぇ、一の渡の片道と往復を切ってもらってぇ、田老の片道も一緒にお願いします。

(窓)は~い、ではちょっとお待ちくださいね~。

てことで現状の三鉄の普通乗車券コンプリートです。

ちなみに、田老の券番は7601です。そう言うことですよ。

いやぁ~、みやっちのスイッチ入ったの分かりました?
いやね、参ったね。
でもね、さりげないとこで売上に貢献したと思っとるそこのあなた、それは間違いです。
きっぷは本来、発券→改札→集札という流れで扱われるものです。
常備券や補充券なんかは最後に照合が必要らしいので、特にダメです。

今回は完全非鉄の旅なのに、思わぬとこで火が点いちゃいました。

そんなこんなで鉄ちゃん魂に勝手に引火しとるもんだで、帰りの106急行の時間ギリギリじゃん。

思わずバスを撮るの忘れてまったし。
車両は最終型のスペースアローでした。
そういえばビーム1はこの日は京急バスが県北の営業所にいましたな。

帰りもやまびこ館で休憩して盛岡駅に到着です。




着いたらそそくさとホテルへ行きます。
今日の宿は東横インです。

駅前と開運橋の2軒あるけど、今回は開運橋です。
2泊ね。

翌朝気付いたんだけどね、隣が岩手県交通の本社(?)なのよ。
ビックリ。


この日の夜ごはんは一風堂です。
まあ、当然からか麺ですわ。
さらにホテルへ戻って一杯。


といったところで陸前高田編へ続きます。




本編 ~ 4月17日 陸前高田編 ~

2011-05-03 00:01:00 | 長編
4月17日(日)

この日はこの旅の最大の目的地、陸前高田市へ行きますが、この時はまだ盛岡から1日1往復の臨時バスしかなかったから、盛岡前泊じゃないと行けない陸の孤島状態でした。


盛岡へ帰るまでごはん食べられないからしっかり腹を満たして、いざ、陸前高田!




臨バの運行は岩手県交通です。
マル貸からの転用路線車のスーパークルーザーが来ました。



乗り場は釜石線と大船渡線と同じです。

途中までは大船渡線と同じルートで、世田米から分かれていきます。
途中の米田交差点で休憩です。

同発の大船渡線は遅れて到着です。

米田交差点からしばらく走ったら、いきなり宮守に出ました。
高校生の時に銀河ドリームを撮った懐かしい場所です。



でもって鱒沢まで快速はまゆりとサイドバイサイドです。
鱒沢で釜石線と別れてあとはひたすら山の中を走りました。
どこも同じだけど、沿岸は壊滅的なのに、山間部の景色は地震の被害を感じさせません。
でも、陸前高田市が近付き気仙川沿いを走って竹駒付近に出たら、その景色は一変しました。
やはり、他の沿岸地域と変わらない瓦礫の山と化した街がそこにありました。

バスは瓦礫の街中を走り、竹駒と陸前高田の中間に位置し、高台にある高田ドライビングスクールに30分ほど早く到着しました。


バスを降りて街へ出ると、なんとか外観を保って残っているローソン屋敷がありました。
ここでどうでしょうDVDを予約して受け取る予定だった藩士もいたのではないでしょうか?


いきなりらっきょうを漬けている瓶が流されていました。


石垣の上にあるお寺にも津波は押し寄せ、塀や門が損壊しています。


瓦礫の中にそびえ立つ木がちょっと悲しげです。


瓦礫の中には卒業アルバムや創立記念誌がたくさん埋もれています。




当日は式があったのでしょうか?白い草履もありました。


消防車はひっくり返り、タンクローリーも流されています。


瓦礫の中で泥にまみれたプーさんや、座り込んで持ち主の帰りを待つクマのぬいぐるみがなんともやるせないです。




家の土台だけ残して大黒様と達磨さんが。


玄関先だった場所には、その家の家族の安否、避難先を書いた立て札が何軒もあります。


この赤ちゃんとおじいちゃんは無事避難できたのでしょうか?


瓦礫にぽつんと立つ消火栓が、なんだか痛々しく思えました。


竹駒駅は駅舎とホームは辛うじて残っていました。

わずかに残るレールとホーム、駅舎、そして、倒れた停目、ここが駅であることを主張しています。

当日は近くの学校で卒業式があったのでしょうか?法面には流されてきた花束がありました。


カメラもありました、しかもフィルムカメラ。


辛うじて残る踏切が線路があった場所を辿らせます。
踏切の先には水路に突き刺さったダンプカーが・・・。


竹駒駅前には立派な蔵が流されることなくしっかりと建っていました。


蔵の周辺の瓦礫にはゴジラのぬいぐるみが。

この瓦礫の山が津波じゃなくてこのゴジラのぬいぐるみが襲ったものだったならっていう、ちょっと現実逃避をしていました。

線路は車で走るところではありません。

・・・。
普段ならそんなアホなことを言っとると思うけど、そんなことこれっぽっちも思いつかんぐらい目の前の状況を撮ることに必死だった。

このあとさらに、気仙川橋梁まで行きました。
歩いていてふと気付くと、無意識でボロボロと涙を流していました。
感情も何もなく、勝手に涙が溢れてきました。
でも、多分それが普通の人間の普通の感情なんだと思います。




流された気仙川橋梁の脇を素っ気なく流れる川が、日常であり非日常でもありました。
一言で言えば、なんだかなぁ~、って感じです。

気仙川の河原にはたくさんの瓦礫があった、あるというよりは流されてきてここに集められているが正解だと思うけど、いろいろな日常があった。








いつものことながら、また時間を使いすぎ、この時点ですでに12時半でした。
帰りのバスは15時です。
余裕を持って14時過ぎには陸前高田駅を後にするつもりでした。
なので、ダッシュで市街地へ向かいました。

向かったのはいいんだけど、竹駒駅前のガソリンスタンドで非常用の給油機で給油しとるもんだから、思わず声かけて給油作業を撮らせてもらいました。









撮らせてもらったあとにちょっとお話を伺ったら、この方は津波が来てから逃げたけど間一髪で助かったそうです。
そして、今回被災地で唯一声をかけた被災者の方でした。
そうして、お礼を言ってダッシュで陸前高田駅へ向かったけど、被災地はさらに行く手を阻みます。




小学生でしょうかね?女の子が書いた絵本がありました。


築堤の上に線路があるのに、そこまで家が打ち上げられています。


更に少し行くと、被災した普通車に紛れてボッコボコの岩手県交通のバスがありました。

1台だけじゃなく、その先にもそのまた先にも流されてボコボコになったバスが何台もいました。






バイパスに出る手前に、ガラスの道という場所があります。
夕日が当たってキラキラ輝いたら綺麗だろうねぇ。


道路標識もこの有り様・・・。


バイパスの跨線橋付近では、瓦礫の中からバス停のポールが顔を出していました。


瓦礫に埋もれた写真の中で一番衝撃的だったのがこの写真。

なにかの記念写真とも、遺影とも取れるこの写真にはものすごい衝撃を受けました。

駅へ行く道は途中で陥没したり法面が崩れたりしていました。


そうして、ようやく駅に着きました。
ホームは残っているけど駅舎は跡形もありません。
駅前薬局の看板でここが駅であることがわかります。

倒壊した駅舎の瓦礫の中を必死に駅である証を泣きながら探していました。
見つけたのは使用済み乗車券入れです。

たったこれだけのものを見つけただけなのに、うれしくてさらに泣いてしまいました。
これだけでも見つけられたから良かったんだけど、どうしても駅名板を見つけたくて周囲を探しました。
ちなみに、去年の夏にリアスシーライナーに乗った時は↓こんな感じ。


で、ありました、同じ駅名板です。

もう見つけた瞬間ボロボロと涙が落ちて大泣きでした。
ホームの上にはなく、構内踏切の警報器の脇まで吹っ飛ばされていました。
しかも、「高」と「田」の間で引きちぎられて。
↓ケータイで撮った同じ画は、この惨状を忘れたくないから待受けにしています。


そしてここでタイムアップです。

大船渡方を一枚撮ってダッシュでバスへ戻りました。

瓦礫の山の傍らでは桜が咲き始めています。


その桜の下には「復興の湯」という銭湯が営業しています。


道草ばっか食っとるもんだから、バスに着いたのは発車5分前でした。
危ない危ない。

高田の松原まで行けなかったのがちょっと残念だったけど、それはまた機会があれば。
心残りではあったけど、盛岡への帰途につきました。


ちょっと爆睡こいてまったけど、帰りは宮守の道の駅で休憩です。

あの眼鏡橋のところね。

横には弘南バスのマル貸がいました。
なんか落ち着いてきたらお腹が空いてきたから、パンと大判焼を買ってきました。

そうして約10時間ぶりに盛岡へ帰ってきました。


夕映えの岩手さんを望みながらマックスバリューで買い物をしてホテルへ帰りました。


マックスバリューなのにバドがなかったから、仕方なくのどごし生にしました。


〆は駅のNDで見つけた盛岡冷麺缶。



そうして夜は更け、短くて長かった陸前高田での一日が終わりました。