4月17日(日)
この日はこの旅の最大の目的地、陸前高田市へ行きますが、この時はまだ盛岡から1日1往復の臨時バスしかなかったから、盛岡前泊じゃないと行けない陸の孤島状態でした。
盛岡へ帰るまでごはん食べられないからしっかり腹を満たして、いざ、陸前高田!
臨バの運行は岩手県交通です。
マル貸からの転用路線車のスーパークルーザーが来ました。
乗り場は釜石線と大船渡線と同じです。
途中までは大船渡線と同じルートで、世田米から分かれていきます。
途中の米田交差点で休憩です。
同発の大船渡線は遅れて到着です。
米田交差点からしばらく走ったら、いきなり宮守に出ました。
高校生の時に銀河ドリームを撮った懐かしい場所です。
でもって鱒沢まで快速はまゆりとサイドバイサイドです。
鱒沢で釜石線と別れてあとはひたすら山の中を走りました。
どこも同じだけど、沿岸は壊滅的なのに、山間部の景色は地震の被害を感じさせません。
でも、陸前高田市が近付き気仙川沿いを走って竹駒付近に出たら、その景色は一変しました。
やはり、他の沿岸地域と変わらない瓦礫の山と化した街がそこにありました。
バスは瓦礫の街中を走り、竹駒と陸前高田の中間に位置し、高台にある高田ドライビングスクールに30分ほど早く到着しました。
バスを降りて街へ出ると、なんとか外観を保って残っているローソン屋敷がありました。
ここでどうでしょうDVDを予約して受け取る予定だった藩士もいたのではないでしょうか?
いきなりらっきょうを漬けている瓶が流されていました。
石垣の上にあるお寺にも津波は押し寄せ、塀や門が損壊しています。
瓦礫の中にそびえ立つ木がちょっと悲しげです。
瓦礫の中には卒業アルバムや創立記念誌がたくさん埋もれています。
当日は式があったのでしょうか?白い草履もありました。
消防車はひっくり返り、タンクローリーも流されています。
瓦礫の中で泥にまみれたプーさんや、座り込んで持ち主の帰りを待つクマのぬいぐるみがなんともやるせないです。
家の土台だけ残して大黒様と達磨さんが。
玄関先だった場所には、その家の家族の安否、避難先を書いた立て札が何軒もあります。
この赤ちゃんとおじいちゃんは無事避難できたのでしょうか?
瓦礫にぽつんと立つ消火栓が、なんだか痛々しく思えました。
竹駒駅は駅舎とホームは辛うじて残っていました。
わずかに残るレールとホーム、駅舎、そして、倒れた停目、ここが駅であることを主張しています。
当日は近くの学校で卒業式があったのでしょうか?法面には流されてきた花束がありました。
カメラもありました、しかもフィルムカメラ。
辛うじて残る踏切が線路があった場所を辿らせます。
踏切の先には水路に突き刺さったダンプカーが・・・。
竹駒駅前には立派な蔵が流されることなくしっかりと建っていました。
蔵の周辺の瓦礫にはゴジラのぬいぐるみが。
この瓦礫の山が津波じゃなくてこのゴジラのぬいぐるみが襲ったものだったならっていう、ちょっと現実逃避をしていました。
線路は車で走るところではありません。
・・・。
普段ならそんなアホなことを言っとると思うけど、そんなことこれっぽっちも思いつかんぐらい目の前の状況を撮ることに必死だった。
このあとさらに、気仙川橋梁まで行きました。
歩いていてふと気付くと、無意識でボロボロと涙を流していました。
感情も何もなく、勝手に涙が溢れてきました。
でも、多分それが普通の人間の普通の感情なんだと思います。
流された気仙川橋梁の脇を素っ気なく流れる川が、日常であり非日常でもありました。
一言で言えば、なんだかなぁ~、って感じです。
気仙川の河原にはたくさんの瓦礫があった、あるというよりは流されてきてここに集められているが正解だと思うけど、いろいろな日常があった。
いつものことながら、また時間を使いすぎ、この時点ですでに12時半でした。
帰りのバスは15時です。
余裕を持って14時過ぎには陸前高田駅を後にするつもりでした。
なので、ダッシュで市街地へ向かいました。
向かったのはいいんだけど、竹駒駅前のガソリンスタンドで非常用の給油機で給油しとるもんだから、思わず声かけて給油作業を撮らせてもらいました。
撮らせてもらったあとにちょっとお話を伺ったら、この方は津波が来てから逃げたけど間一髪で助かったそうです。
そして、今回被災地で唯一声をかけた被災者の方でした。
そうして、お礼を言ってダッシュで陸前高田駅へ向かったけど、被災地はさらに行く手を阻みます。
小学生でしょうかね?女の子が書いた絵本がありました。
築堤の上に線路があるのに、そこまで家が打ち上げられています。
更に少し行くと、被災した普通車に紛れてボッコボコの岩手県交通のバスがありました。
1台だけじゃなく、その先にもそのまた先にも流されてボコボコになったバスが何台もいました。
バイパスに出る手前に、ガラスの道という場所があります。
夕日が当たってキラキラ輝いたら綺麗だろうねぇ。
道路標識もこの有り様・・・。
バイパスの跨線橋付近では、瓦礫の中からバス停のポールが顔を出していました。
瓦礫に埋もれた写真の中で一番衝撃的だったのがこの写真。
なにかの記念写真とも、遺影とも取れるこの写真にはものすごい衝撃を受けました。
駅へ行く道は途中で陥没したり法面が崩れたりしていました。
そうして、ようやく駅に着きました。
ホームは残っているけど駅舎は跡形もありません。
駅前薬局の看板でここが駅であることがわかります。
倒壊した駅舎の瓦礫の中を必死に駅である証を泣きながら探していました。
見つけたのは使用済み乗車券入れです。
たったこれだけのものを見つけただけなのに、うれしくてさらに泣いてしまいました。
これだけでも見つけられたから良かったんだけど、どうしても駅名板を見つけたくて周囲を探しました。
ちなみに、去年の夏にリアスシーライナーに乗った時は↓こんな感じ。
で、ありました、同じ駅名板です。
もう見つけた瞬間ボロボロと涙が落ちて大泣きでした。
ホームの上にはなく、構内踏切の警報器の脇まで吹っ飛ばされていました。
しかも、「高」と「田」の間で引きちぎられて。
↓ケータイで撮った同じ画は、この惨状を忘れたくないから待受けにしています。
そしてここでタイムアップです。
大船渡方を一枚撮ってダッシュでバスへ戻りました。
瓦礫の山の傍らでは桜が咲き始めています。
その桜の下には「復興の湯」という銭湯が営業しています。
道草ばっか食っとるもんだから、バスに着いたのは発車5分前でした。
危ない危ない。
高田の松原まで行けなかったのがちょっと残念だったけど、それはまた機会があれば。
心残りではあったけど、盛岡への帰途につきました。
ちょっと爆睡こいてまったけど、帰りは宮守の道の駅で休憩です。
あの眼鏡橋のところね。
横には弘南バスのマル貸がいました。
なんか落ち着いてきたらお腹が空いてきたから、パンと大判焼を買ってきました。
そうして約10時間ぶりに盛岡へ帰ってきました。
夕映えの岩手さんを望みながらマックスバリューで買い物をしてホテルへ帰りました。
マックスバリューなのにバドがなかったから、仕方なくのどごし生にしました。
〆は駅のNDで見つけた盛岡冷麺缶。
そうして夜は更け、短くて長かった陸前高田での一日が終わりました。