10月18日
この日は大船渡線の快速スーパードラゴンに乗るからゆっくり朝食。
やっぱり朝ごはんはのんびり食べたいね。
今日もいい天気です。
それじゃあ大船渡線で気仙沼へ。
震災以来初めて、リアスシーライナー以来1年3ヶ月ぶりの気仙沼です。
やっぱり港町には大漁旗が似合いますな。
千羽鶴はあの時もありました。
なぜか被災地で見る青空は今でも心が痛むけど、4月は今以上に痛かった。
やっぱり被災地での青空には慣れん。
本吉行きのバスまでは2時間あるから港の方へ行ってみることに。
駅周辺は少し高台にあるのか、津波の痕跡は見られませんでした。
でも、市役所の先の角を曲がると、周囲の状況は一変します。
まず手始めに、街灯が建物に寄りかかっています。
この辺りが津波の境目みたいです。
その先の交差点ではお巡りさんが交通整理しています。
たしか、警視庁だったはず。
正面に写ってる建物はすごい状態でした。
野蒜のあの家並みにすごいです。
信号があっち向いてほい。
この辺りは港のすぐ近くだからなす術もないのですね。
大島への船が発着する、港ふれあい公園。
桟橋は水没。
気仙沼の街を北鉄バスが走ってます。
宮交や県交は、沿岸地区の営業所で多くのバスが被災しました。
県交は国際興業グループから、宮交は名鉄グループからそれぞれバスを譲受しています。
国際興業グループはみんな同じ塗装だけど、名鉄グループは名鉄を基本としつつもみんな違うから、宮交の沿岸地区はかなりカラフルです。
女川には北恵那交通がいましたな。
エスポートのすぐ近くには男山酒造があります。
でも、今はこの有り様。
二階建てじゃなくて二階だけ。
地球の裏側で起こったチリ地震。
M9.6を記録したこの地震でも、地球の裏側では浸水高は3m。
今回の震災では、チリ津波で3mだったのを過信して、避難しなかったり逃げ遅れたりして津波に呑まれた人が多かったそうです。
やっぱりね、沖合いが震源の地震の時はね、たとえ津波が来なかったとしても、まず高い場所へ逃げることが最優先だね。
他人の命よりまず自分の命。
自己中人間は嫌われるけど、そういう時だけは自己中でいいと思います。
緊急避難は仕方の無いこと。
たげど、時が経つにつれて辛くなるんだよね、きっと。
しかし、気仙沼も沈下が激しいね。
道路は盛った高さが本来の高さで、盛ってある下が沈下した本来の路面。
看板は残ってるけど、店は見る影もない。
エスポートの裏。
かなり長い期間水に浸かっていたのか、地面は苔むしていました。
そのすぐ隣。
大漁旗と浮きで飾られた風の広場があります。
大漁旗がロープに巻き付いてうまくなびいてくれないの。
その中にはこんなオブジェが。
グラウンドゼロ。
普通は爆心地など被害の中心を指すけど、この場合は気仙沼の復興に向けての中心にしようみたいな意味合いで捉えたけど、合っとるか?
風の広場の裏。
気仙沼だけじゃなく他の地域でも、瓦礫はなくなったけどいわゆる粗大ゴミで区分される物はまだまだ街中にたくさん残されていました。
気仙沼でも鯉のぼりが泳いでいました。
でも、よく考えたらこれ10月だで。
津波は漂流物と共にシャッターをも破って侵入するってことですね。
で、そろそろバスの時間だから、始発の市役所のバス停へ。
エアロスターのノーステが来た。
でもってなぜか本吉駅には15分も延着。
本吉駅からはエルガのちっちゃいやつ、MIOだっけか?
でもって運ちゃん頑張って3分回復して、志津川に着きました。
右側の鉄骨が例の建物。
1時間しか時間がないからサクサク行きましょう。
バス乗り場の近く。
ここでも山積み・・・。
この時ね、初めて口に出しました。
「もううんざりだ」
被災地に来て、行く先々で同じ光景ばっか見るのはもううんざりだって。
でも不思議と、いくらうんざりだって思っても、被災地へ行くのを止めようとは全く思わないのね。
それは、写真やニュースの映像では、被災地の生の空気感が伝わらないから。
伝えられないって言うのが正解か。
映像や写真ではあの空気は絶対に伝えられない。
まずは志津川の駅へ。
駅舎は跡形もなく。
築堤の上にあるホームもさらわれていました。
志津川病院
外観は保っているものの、津波に呑み込まれ建物の中はめちゃくちゃです。
二階の屋根には流されてきた漁船も見えます。
こうして花が供えられているのも何度見てきただろうか・・・。
バスの時間もあるから、そろそろ防災庁舎へ。
ここにもチリ津波の浸水高を示す標識があります。
ここも、陸前高田で見た雇用促進住宅と同じ空気を感じました。
玄関だった場所に作られた祭壇には、花や飲み物が供えられています。
あの日、あの声は自分の命を犠牲にしてまで多くの人の命を救いました。
でも、できることなら自分の命も犠牲にすることなく多くの命を助けてほしかった。
3月に来る時には、たぶん取り壊されとるんだろうなあ。
身内の人はこう言うのがいつまでも残っとるのは辛いのかもしれんけど、それは裏を返せば自分の家族の悲劇を、もっと大きく言えば街の惨劇をも風化させることになると思うんだけどねえ。
そう思うのは俺だけか?
他所の人間だからそう思うのかもしれんけど、なるべくなら津波の傷跡を残して、津波の怖さを後世に伝えていってほしいと思うのね。
全てを残す必要はないと思うのよ。
こんなこと書きたくはないけど、辛いからと言って全ての傷跡を消し去るのは被災者のエゴにしか聞こえんのよ。
風化してもいいなら全て消し去る、風化させたくないなら辛くても残す。
はっきり言って、自分の中では阪神も中越もほとんど風化しとるもん。
記憶から阪神も中越も消し去ろうとするぐらい、この震災は衝撃的だったってことですよ。
ま、あっちを立てればこっちが立たずってやつですわね。
そろそろ時間だから、バス停に戻ることに。
画面の右側からザバーっとやって来て、壊すだけ壊してサーっと引いてったんですかね?
上流側の欄干はなぎ倒されとるのに、何で下流側の欄干は普通なの?
バス停の近くで。
!!
イルカがおる!と思ったら柵だった。
柳津行きのバスは北恵那だった。
柳津で列車に乗換。
ちょうどいい時間。
前谷地で小牛田行きに乗り換えて、小牛田で30分待たされて一ノ関行きに乗換。
一ノ関で盛岡行きに乗り換えて北上へ。
一ノ関から北上に来るのにえらい遠回りだったなぁ。
ってことで、この日は北上の東横イン泊まり。
北上泊ってことは、明日の朝は・・・。
この日は大船渡線の快速スーパードラゴンに乗るからゆっくり朝食。
やっぱり朝ごはんはのんびり食べたいね。
今日もいい天気です。
それじゃあ大船渡線で気仙沼へ。
震災以来初めて、リアスシーライナー以来1年3ヶ月ぶりの気仙沼です。
やっぱり港町には大漁旗が似合いますな。
千羽鶴はあの時もありました。
なぜか被災地で見る青空は今でも心が痛むけど、4月は今以上に痛かった。
やっぱり被災地での青空には慣れん。
本吉行きのバスまでは2時間あるから港の方へ行ってみることに。
駅周辺は少し高台にあるのか、津波の痕跡は見られませんでした。
でも、市役所の先の角を曲がると、周囲の状況は一変します。
まず手始めに、街灯が建物に寄りかかっています。
この辺りが津波の境目みたいです。
その先の交差点ではお巡りさんが交通整理しています。
たしか、警視庁だったはず。
正面に写ってる建物はすごい状態でした。
野蒜のあの家並みにすごいです。
信号があっち向いてほい。
この辺りは港のすぐ近くだからなす術もないのですね。
大島への船が発着する、港ふれあい公園。
桟橋は水没。
気仙沼の街を北鉄バスが走ってます。
宮交や県交は、沿岸地区の営業所で多くのバスが被災しました。
県交は国際興業グループから、宮交は名鉄グループからそれぞれバスを譲受しています。
国際興業グループはみんな同じ塗装だけど、名鉄グループは名鉄を基本としつつもみんな違うから、宮交の沿岸地区はかなりカラフルです。
女川には北恵那交通がいましたな。
エスポートのすぐ近くには男山酒造があります。
でも、今はこの有り様。
二階建てじゃなくて二階だけ。
地球の裏側で起こったチリ地震。
M9.6を記録したこの地震でも、地球の裏側では浸水高は3m。
今回の震災では、チリ津波で3mだったのを過信して、避難しなかったり逃げ遅れたりして津波に呑まれた人が多かったそうです。
やっぱりね、沖合いが震源の地震の時はね、たとえ津波が来なかったとしても、まず高い場所へ逃げることが最優先だね。
他人の命よりまず自分の命。
自己中人間は嫌われるけど、そういう時だけは自己中でいいと思います。
緊急避難は仕方の無いこと。
たげど、時が経つにつれて辛くなるんだよね、きっと。
しかし、気仙沼も沈下が激しいね。
道路は盛った高さが本来の高さで、盛ってある下が沈下した本来の路面。
看板は残ってるけど、店は見る影もない。
エスポートの裏。
かなり長い期間水に浸かっていたのか、地面は苔むしていました。
そのすぐ隣。
大漁旗と浮きで飾られた風の広場があります。
大漁旗がロープに巻き付いてうまくなびいてくれないの。
その中にはこんなオブジェが。
グラウンドゼロ。
普通は爆心地など被害の中心を指すけど、この場合は気仙沼の復興に向けての中心にしようみたいな意味合いで捉えたけど、合っとるか?
風の広場の裏。
気仙沼だけじゃなく他の地域でも、瓦礫はなくなったけどいわゆる粗大ゴミで区分される物はまだまだ街中にたくさん残されていました。
気仙沼でも鯉のぼりが泳いでいました。
でも、よく考えたらこれ10月だで。
津波は漂流物と共にシャッターをも破って侵入するってことですね。
で、そろそろバスの時間だから、始発の市役所のバス停へ。
エアロスターのノーステが来た。
でもってなぜか本吉駅には15分も延着。
本吉駅からはエルガのちっちゃいやつ、MIOだっけか?
でもって運ちゃん頑張って3分回復して、志津川に着きました。
右側の鉄骨が例の建物。
1時間しか時間がないからサクサク行きましょう。
バス乗り場の近く。
ここでも山積み・・・。
この時ね、初めて口に出しました。
「もううんざりだ」
被災地に来て、行く先々で同じ光景ばっか見るのはもううんざりだって。
でも不思議と、いくらうんざりだって思っても、被災地へ行くのを止めようとは全く思わないのね。
それは、写真やニュースの映像では、被災地の生の空気感が伝わらないから。
伝えられないって言うのが正解か。
映像や写真ではあの空気は絶対に伝えられない。
まずは志津川の駅へ。
駅舎は跡形もなく。
築堤の上にあるホームもさらわれていました。
志津川病院
外観は保っているものの、津波に呑み込まれ建物の中はめちゃくちゃです。
二階の屋根には流されてきた漁船も見えます。
こうして花が供えられているのも何度見てきただろうか・・・。
バスの時間もあるから、そろそろ防災庁舎へ。
ここにもチリ津波の浸水高を示す標識があります。
ここも、陸前高田で見た雇用促進住宅と同じ空気を感じました。
玄関だった場所に作られた祭壇には、花や飲み物が供えられています。
あの日、あの声は自分の命を犠牲にしてまで多くの人の命を救いました。
でも、できることなら自分の命も犠牲にすることなく多くの命を助けてほしかった。
3月に来る時には、たぶん取り壊されとるんだろうなあ。
身内の人はこう言うのがいつまでも残っとるのは辛いのかもしれんけど、それは裏を返せば自分の家族の悲劇を、もっと大きく言えば街の惨劇をも風化させることになると思うんだけどねえ。
そう思うのは俺だけか?
他所の人間だからそう思うのかもしれんけど、なるべくなら津波の傷跡を残して、津波の怖さを後世に伝えていってほしいと思うのね。
全てを残す必要はないと思うのよ。
こんなこと書きたくはないけど、辛いからと言って全ての傷跡を消し去るのは被災者のエゴにしか聞こえんのよ。
風化してもいいなら全て消し去る、風化させたくないなら辛くても残す。
はっきり言って、自分の中では阪神も中越もほとんど風化しとるもん。
記憶から阪神も中越も消し去ろうとするぐらい、この震災は衝撃的だったってことですよ。
ま、あっちを立てればこっちが立たずってやつですわね。
そろそろ時間だから、バス停に戻ることに。
画面の右側からザバーっとやって来て、壊すだけ壊してサーっと引いてったんですかね?
上流側の欄干はなぎ倒されとるのに、何で下流側の欄干は普通なの?
バス停の近くで。
!!
イルカがおる!と思ったら柵だった。
柳津行きのバスは北恵那だった。
柳津で列車に乗換。
ちょうどいい時間。
前谷地で小牛田行きに乗り換えて、小牛田で30分待たされて一ノ関行きに乗換。
一ノ関で盛岡行きに乗り換えて北上へ。
一ノ関から北上に来るのにえらい遠回りだったなぁ。
ってことで、この日は北上の東横イン泊まり。
北上泊ってことは、明日の朝は・・・。
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