井上敬之助(いのうえ けいのすけ、元治2年(1865年 - 昭和2年(1927年)は、滋賀県会議長、衆議院議員を務めた明治・大正期の政治家。滋賀県政の大御所として当時知事が二人いると言われた。

元治2年(1865年)、近江甲賀郡石部村(現滋賀県湖南市石部)に、石部宿本陣小島金左衛門の八男として生まれ、幼名を家之助と称した。
明治3年(1870年)に医師であり石灰製造所を経営していた井上敬祐の養子となり、同20年(1887年)には敬之助と改名した。
明治20年(1887年)大津自由党の創始者の一人酒井有の紹介で、自由党系の活動に参加した。
明治23年(1890年)板垣退助が愛国公党を再興すると、井上は『特に県下の青壮年層に呼びかけて同党の主義綱領を宣伝した』とされる。同年7月の第1回衆議院議員選挙では、滋賀県第2区(甲賀・栗太・野洲郡)において酒井有を擁立し戦ったが落選した。
明治25年(1892年)滋賀県会議員に当選し、以後5回当選している。
明治31年(1898年)6月自由党と進歩党が合流し憲政党が結成されると同党滋賀支部常議員になり、県会においては同年9月滋賀県参事会員となった。
憲政党は明治33年(1900年)9月立憲政友会(総裁伊藤博文)と改称した際、井上は政友会滋賀支部の結成に多大な尽力をしたと言われる。
明治35年(1902年)には衆議院議員に初当選し、翌年も再選した。その後滋賀県会に戻り明治44年(1911年)10月県会議長に就任した。大正4年(1915年)衆議院議員に返咲き、以降3期連続して当選し、政友会本部総務や代議士会長を務めた。
昭和2年(1927年)8月10日死去した。
明治3年(1870年)に医師であり石灰製造所を経営していた井上敬祐の養子となり、同20年(1887年)には敬之助と改名した。
明治20年(1887年)大津自由党の創始者の一人酒井有の紹介で、自由党系の活動に参加した。
明治23年(1890年)板垣退助が愛国公党を再興すると、井上は『特に県下の青壮年層に呼びかけて同党の主義綱領を宣伝した』とされる。同年7月の第1回衆議院議員選挙では、滋賀県第2区(甲賀・栗太・野洲郡)において酒井有を擁立し戦ったが落選した。
明治25年(1892年)滋賀県会議員に当選し、以後5回当選している。
明治31年(1898年)6月自由党と進歩党が合流し憲政党が結成されると同党滋賀支部常議員になり、県会においては同年9月滋賀県参事会員となった。
憲政党は明治33年(1900年)9月立憲政友会(総裁伊藤博文)と改称した際、井上は政友会滋賀支部の結成に多大な尽力をしたと言われる。
明治35年(1902年)には衆議院議員に初当選し、翌年も再選した。その後滋賀県会に戻り明治44年(1911年)10月県会議長に就任した。大正4年(1915年)衆議院議員に返咲き、以降3期連続して当選し、政友会本部総務や代議士会長を務めた。
昭和2年(1927年)8月10日死去した。
滋賀県警本部から歩いて数十秒。琵琶湖を見つめ、勇ましく立つ銅像がある。
その正体は。「井上敬之助」。警察関係者ではなく、非常に有力な政治家だった。「敬之助」は現在の湖南市石部出身。元治2年(1865年)〜昭和2年(1927年)の62歳の生涯を県政に注いだ。
板垣退助らが結成した愛国公党に参加し、27歳で県議に初当選。37歳で衆院議員にも当選している。滋賀県内では、治水や教育などに注力した。
功績として特に大きいのは、立憲政友会の初代滋賀支部長として、党の勢力拡大に奔走したことだ。
議会政治が始まって間もない頃、政党政治の推進を訴え、官僚政治の是正と、民意を反映した政治の発展に尽力したという。当時の滋賀県には、国から派遣された「官選知事」がいたが、敬之助の影響力の強さは「私設知事」「滋賀県に知事が二人いる」などと評された。
その正体は。「井上敬之助」。警察関係者ではなく、非常に有力な政治家だった。「敬之助」は現在の湖南市石部出身。元治2年(1865年)〜昭和2年(1927年)の62歳の生涯を県政に注いだ。
板垣退助らが結成した愛国公党に参加し、27歳で県議に初当選。37歳で衆院議員にも当選している。滋賀県内では、治水や教育などに注力した。
功績として特に大きいのは、立憲政友会の初代滋賀支部長として、党の勢力拡大に奔走したことだ。
議会政治が始まって間もない頃、政党政治の推進を訴え、官僚政治の是正と、民意を反映した政治の発展に尽力したという。当時の滋賀県には、国から派遣された「官選知事」がいたが、敬之助の影響力の強さは「私設知事」「滋賀県に知事が二人いる」などと評された。
井上敬之助の銅像エピソード

「滋賀県は個人顕彰をしない土地柄なのか、銅像が少ないという。
銅像の制作は、滋賀県初の民選知事、「服部岩吉」の呼び掛けがきっかけだった。服部は立憲政友会滋賀支部最後の支部長。いわば、敬之助の教え子のような存在だった。敬之助の功績をたたえ、服部自らが建設を発案した琵琶湖文化館の前に、銅像を建てる計画を進めた。
制作を依頼されたのは、彦根市にある井伊直政・直弼像も手掛けた彫刻家の森大造。敬之助の死後、当時既に35年が経過していた。森は敬之助に会ったことがなく、再現に苦労したと書き残している。
写真も2、3枚しか残っておらず、服部から話を詳しく聞いたり、交流があった人たちの文書を読んだりして想像を膨らませたという。服装も、当時あまり見かけなくなっていたマントのようなフロックコートを借りて来て描写した。
昭和37年(1962年)に完成した際には、服部から「よく似ている」とほめられ、森はほっとしたとか。
現在、銅像は滋賀県警の駐車場と県道の橋に囲まれ、存在感が薄くなってしまっている。除幕式のモノクロの写真を見ると当時、周りは県道もない更地。琵琶湖文化館の休憩所に隣接し、今より像が目立っていたらしい。
<Wikipedia及び中日新聞より引用>