東近江市在住の鈴木悛亮さんは1945年、終戦を母の故照子さんのおなかで迎え、4カ月後に生まれた。
学校では戦中と戦後生まれが交じった学年。戦中生まれの子は、勝利を願って「勝男」「勇」といった名前が多かった。
「寺社では釣り鐘を徴集され、戦場に行かずに帰ってくれば『役立たず』とののしられた」。
父の故哲恩(てつおん)さんは、過去の過ちを認めて心を入れ替える意味の「改悛(かいしゅん)」から一字を取り、名前を決めた。「悲惨な戦争を悔い改め、もう2度としない」という願いを込めていた。
↑写真:中日新聞より(鈴木悛亮さん)
戦時中の話を、両親からよく聞いた。戦死した人の法要が重なるなど、戦局の悪化が寺に伝わるようになった1945年2月。父親は20代半ばで召集令状を受けた。翌月には長崎県佐世保市の海軍施設へ。呼吸器疾患があり、身体検査で出征を逃れた。施設には金属不足で兵器らしいものがなかった。竹の水筒を見て「日本は負ける」と悟り、八日市に帰った。
戦時中は金属類回収令を受け、寺社が鐘や仏具などを供出した。実家の「金念寺」(こんねんじ)も例外ではなかった。当時飛行場があり、幾度となく空襲に見舞われた。警報のサイレンが鳴るたびに、母親は大きなおなかを抱えて防空壕(ごう)へ。終戦まで必死に耐えた。
「もし父が出征して戦死していたら、自分の人生はどうなっていただろう」と考えるようになった。高校で日本史を教え、寺の住職を務める忙しい毎日でも、戦死者の遺族に会い、戦争に関心を持ち続けてきた。
2002年7月、地元の遺族会に同行し、激戦で多くが犠牲になったサイパン島への慰霊の旅に出た。父親を亡くしたという男性は、米軍の激しい攻撃で追い詰められた人たちが自決したバンザイクリフで「お父さん!」と叫んだ。「私も父親がサイパンで死んでいたら、同じように叫んでいたでしょう」
この思いをきっかけに、戦争の爪痕が色濃く残る場所を、本格的に巡るようになった。ユダヤ人迫害の舞台となったオランダのアンネフランクの家、ポーランドのアウシュビッツ収容所。壮絶な経験をしたユダヤ人に、思いをはせた。
パレスチナにも足を運んだ。入植したユダヤ人が大半を占めるイスラエルに故郷を追われた難民から「アンネの日記なんか偽造したものだ。イスラエルが憎い」と言われた。頭の中が混乱した。
「世界から戦争をなくすのは理想。それぞれの宗教や歴史を考えれば、なかなかそうはならない」。理想を現実に少しでも近づけるには、対立する双方の立場を考える必要があることを肌で感じた。その上で「お釈迦(しゃか)さんの教えにもあるように、お互いに武器を捨てるのが、良いやり方ではないか」。
戦後77年が経ち、国内では戦争に関心のない若者も増えた。戦争を体験し、つい昨日のことのように感じている人たちは高齢になり、亡くなる人も多い。「当時の体験を話せる人が、どんどん減っている。戦争を知らない若い人にこそ、その悲惨さを知ってもらいたい」
記者取材後記
鈴木さんは、父から受け継いだ記憶を証言した。戦時中、報道は戦争を善しとする世論を醸成していた。本紙の戦時版を読むと、航空機の増産のために部品を製造する女性工員を取り上げていた。新聞は戦争を止めるどころか、加速させていた。今も世界のあちこちで戦争や紛争が起きている。何を報道するのが正しいのか、覚悟を持ちたい。
<中日新聞より>