”スローライフ滋賀” 

【身近な昔探訪】第219回・東近江市八日市上之町にあった「松原鉄工所」

↑松原鉄工所があった場所

 「松原鉄工所」は東近江市のグリーンロード(近江鉄道八日市駅前通り)で東近江市役所近くのエース証券八日市支店の左側の場所にあった。
現在は空き地・駐車場になっている。跡地は「東近江JAZZフェスティバル」の1つの会場としても使われる。
 いつ頃までこの地にあったのか記憶に薄いがこの地区が官庁街になった昭和期までのことだろう。

現在、松原鉄工所滋賀工場は布引丘陵の東近江市 柴原南町1546にある。

コメント一覧

Unknown
沖田縫製場
「工場としては廃業した後を区切って賃貸ししていたのだろうと想像している。」としたが、沖田アパートと沖田工場は併存していた可能性があることが分かった。昭和後期の地図に沖田縫製場というのが見られる。
Unknown
昔、あった工場、覚えているもの
昔、あった工場、覚えているもの

岡崎工場:岡崎製織場などとも呼ばれた。戦時中の国民学校の郷土読本か何かで、軍需工場化された当時のことが掲載されていたのを読んだことがある。戦後は製織場に戻り、着物の帯(女性用和装帯)などを製造していた。現在住宅地。

滋賀織布:これは岡崎工場のすぐ近く、2つに分かれていた。道を挟んで南側の建物の一部には後年滋賀産業(カーペットなど、大阪チェーンの南隣、ABC菓子屋との間に小さな販売所があった)の倉庫か何かが置かれていた。滋賀織布の主体は今の金屋会館、金屋総区ふれあい広場付近を北端として南に広がっていた。操業時は結構臭いが漏れて、臭い工場だった。臭い工場は、ここと八日市駅裏の八日市パルプ工業の2つ、工場でなかったが、西田養鶏場は結構臭いが強かった。滋賀織布は、後年は自衛隊用の防弾チョッキを作っていたと聞いたことがある。現在は住宅地。

松原鉄工所:八日市高校のグラウンドと細い道を隔てて存在していた。詳しいことは八日市市史に書いてあると思う。近くに多田工場というのもあったが、なにを作っていたのかさえもわからない。多田工場の自宅住居は有名な人が関わった建築と聞いた覚えがあるが、今となっては確認できない。

近江蚕業?経済連?:近蚕(きんさん)と呼ばれたところが東浜町にあったと思う。絹糸製造の報道フィルム動画を白黒テレビの時代に見た記憶がある。昭和56年の住宅地図では何の記載もないので、その時点では空き地のようになっていたのかもしれない。昭和60年の住宅地図では住宅と思える建物がいくつか書かれている。近蚕という言い方は通じにくいかもしれない、ひょっとしたら、後年は経済連と呼ばれたかもしれない。どこかで近蚕は近畿蚕業と書いたかもしれないが、近江蚕業の略である。経済連はわかりにくい組織で、正式名称は経済農業協同組合連合会というらしく、都道府県単位だったが、現在は全農に統合されている都道府県も多く、滋賀県も全国農業協同組合連合会 滋賀県本部としてJA全農の傘下にある。略称のきんさんであるが、昔は近江鉄道も、きんてつと呼ばれていたこともあるし、きんりく近畿陸運など「近」という字がつくと、きん〇〇と7略称されることが多かったと思う。それで通じるぐらいに世界は狭かったのだと思う。今の時代にきんてつと言ったら近鉄(近畿日本鉄道)をさして近江鉄道だとは誰も思わないだろう。

近江酒造も大きな工場に当たると思うが、きんしゅとは呼ばれない。

いわゆるマンボ付近に沖田アパートと呼ばれる建物があった。現在のコーポおきたの前身かと思うが、沖田工場とも呼ばれた。少し調べたら、沖田メリヤス工場と呼ばれたらしいと分かった。私は随分昔に沖田アパートの中に入ったことがあった。その記憶の断片では、暗い大きな建物の中を垂木とベニヤ板で仕切ってあったように思う。工場としては廃業した後を区切って賃貸ししていたのだろうと想像している。グーグルストリートビューで覗いてみようとしたが、あの世界に冠たるグーグルですら受け付けない、怪しい世界が八日市には現存していることを知った。

発展途上の国では繊維産業がその発展に寄与することが多いと思うが、日本もそうであって、八日市は絹糸、人絹、製織などの集積地であったと思われる。
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