国友 一貫斎(くにとも いっかんさい、九代目国友 藤兵衛(くにとも とうべえ) 安永7年(1778年) - 天保11年(1840年)は鉄砲鍛冶師、発明家。幼名は藤一。
号は一貫斎、眠龍。諱は重恭。能当(旧字では能當)と銘を切る。
↑夢鷹図(部分)国友一貫斎像(国友一貫斎家資料)
そもそも、
国友(くにとも)は、近江国坂田郡の地名(現在の滋賀県長浜市国友町)だ。戦国時代から江戸時代末期まで、堺、根来(紀伊国北部(現在の岩出市)と並び称される鉄砲の生産地として栄えた。
「国友」の名は単なる地名に留まらず、国友の工人「国友鍛冶」や、国友で生産される銃「国友筒」をも指した。鍛冶銘は「国友」姓で統一されて「江州 国友藤兵衛重恭」などと称する。
村が一つの工業団地的性格を持ち、銃身など主要部分を作る鍛冶のほかに、銃床を作る「台師」、「からくり」と呼ばれる機関部や各種の金属部品それに銃身や地板(機関部基板)等に施す装飾の象嵌等にそれぞれの専門職人が居り、分業体制がとられていた。
国友における鉄砲製造の起源は、天文13年(1544年)、将軍・足利義晴より見本の銃を示され作ったのが始まりと『国友鉄砲記』に伝わる。
1549年には織田信長が、500挺もの国友村鉄砲を発注したという記録があるが、姉川の戦い(1570年)を機に村を所領とした信長は、羽柴秀吉に命じ、この地の鉄砲業の発展をなし遂げさせた。
江戸幕府の時代、村は徳川家康の掌中に入るが、慶長12年(1607年)前述の4名は鉄砲代官に任命されることとなる。このあたりから産業は隆盛を極め、大坂夏の陣の時点では国友村は鉄砲鍛冶が73軒、鉄匠が500人だったと記録されるが、太平の世の中になると需要は激減した。
江戸時代には幕府と密接に連携して一定量の発注を受けて生産したが、それのみで生計が成り立つ数量には満たなかったようである。
工人らは交代で江戸に詰め、江戸城での銃器メンテナンスも行った。各地の領主の招聘に応じその地に逗留・移住する銃工も多く、それら銃工の作品には「国友」銘のほか本名で鐫られたものも多い。国友出身でない銃工が国友で修行して「国友」を名乗る例や、商品価値を高めるための「国友」銘もあるといわれる。
並び称せられた堺の銃が豪華な装飾金具や象嵌を施した「見た目の付加価値」であるのに対し、国友の製品は「機能美的」に洗練された秀作が多い。日本の古式銃の約4分の1は国友銘と云われ、堺と人気を二分していた。
このような国友の歴史的背景に、国友一貫斎(藤兵衛重恭)が生まれている。
一貫斎はこの9代目にあたるが、特に著名であるため説明なく彼を指して「国友藤兵衛」と呼ぶことが多い。
初代・辻村(国友)藤内は美濃国の鍛冶師の出身であり、永正年間に近江国国友村に移り住んだと言われている。
その跡を継いだ2代目以降の当主の多くが国友藤兵衛を名乗った。他の国友鍛冶職人は重当(旧字:重當。弾が「重ねて当たる」の意)の銘を用いるのが通例だが、藤兵衛家のみ能当(旧字:能當。「能(よ)く当たる」の意)を用いる。
9代国友一貫斎(藤兵衛重恭)は、近江国国友村(滋賀県長浜市国友町)の幕府の御用鉄砲鍛冶職の家に生まれた。9歳で父に代わって藤兵衛と名乗り、17歳で鉄砲鍛冶の年寄脇の職を継いだ。
文化8年(1811年)、彦根藩の御用掛となり、文政2年(1819年)、オランダから伝わった風砲(玩具の空気銃)を元に実用の威力を持つ強力な空気銃である「気砲」を製作。その解説書として「気砲記」を著し、後には20連発の早打気砲を完成させた。
文政年間、江戸で反射望遠鏡を見る機会があり、
天保3年(1832年)頃から反射式である「グレゴリー式望遠鏡」を製作し始めた。当時の日本で作られていた屈折望遠鏡よりも優れた性能の望遠鏡であり、口径60mmで60倍の倍率の望遠鏡であった。後に天保の大飢饉等の天災で疲弊した住人のために大名家等に売却されたと言われ、現在は上田市立博物館(天保5年作、重要文化財)、彦根城博物館に残されている。
また、彼は自作の望遠鏡で天保6年(1835年)に太陽黒点観測を当時としてはかなり長期に亘って行い、他にも月や土星、一説にはその衛星のスケッチなども残しており、日本の天文学者のさきがけの一人でもある。
その他、玉燈(照明器具)、御懐中筆(万年筆、毛筆ペン)、鋼弩、神鏡(魔鏡)など数々の物を作り出した発明家である。また、日本におけるネジ発明者でもある。
天保11年(1840年)、国友村にて死去。享年63歳。
明治時代に入り11代目当主以降は鉄砲鍛冶を廃業している。
また、彼は自作の望遠鏡で天保6年(1835年)に太陽黒点観測を当時としてはかなり長期に亘って行い、他にも月や土星、一説にはその衛星のスケッチなども残しており、日本の天文学者のさきがけの一人でもある。
その他、玉燈(照明器具)、御懐中筆(万年筆、毛筆ペン)、鋼弩、神鏡(魔鏡)など数々の物を作り出した発明家である。また、日本におけるネジ発明者でもある。
天保11年(1840年)、国友村にて死去。享年63歳。
明治時代に入り11代目当主以降は鉄砲鍛冶を廃業している。
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現在、鉄砲の技術は長浜八幡宮の祭りに繰り出される曳山(山車)や長浜仏壇の金具に生かされている。また、国友の「花火」にも生きている。
長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市公園町)では、江戸時代後期に科学者として活躍した鉄砲鍛冶の国友一貫斎(いっかんさい)を紹介するリーフレット「国友一貫斎のプロフィールブック」を発行している。「長浜城歴史博物館」と「国友鉄砲ミュージアム」(同市国友町)で100円で販売している。