2020年のNHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」の主人公・「明智光秀」が滋賀県多賀町佐目の出身との伝説が、多賀地域に残っている。
通説では明智光秀の出身地は美濃国(岐阜県)とされ、これまで伝承を知る人は滋賀県内でも少なかったが、住民らは「放送をきっかけに、本能寺の変による『裏切り者』のイメージが変われば」と期待する。
口伝の地である屋敷跡の整備に取り組むなど、「多賀出身説」を町ぐるみで盛り上げようとしている。
岐阜県に隣接する多賀町。その中心部から東に約6km。国道306号沿いに、樹齢500年以上といわれるスギの巨木がそびえる「十二相神社」が鎮座する。そのすぐ東の広さ約400㎡メートルの空き地が、光秀のすみかと伝わる屋敷跡だ。
屋敷があった目印という柿の木のそばに、光秀の通称を冠した「十兵衛屋敷跡」と書かれた大きな看板が立ち、訪れた人が休める茶屋や庭園も整備されている。これらは、大河ドラマの放送決定を受け、住民や出身者が立ち上げた団体「佐目十兵衛会」が手作りで建設した。
また、近くには光秀が掘ったと伝わり、地元で「神さん池」と呼ばれて神事で用いられてきた井戸が残り、最近は県内外から多くの観光客が訪れている。
屋敷跡や井戸など、光秀に関する伝承を脈々と伝えてきたのが、十二相神社の門前の集落に古くから住む見津(けんつ)一族だ。光秀が佐目にいた時の家臣を祖先に持つ。その名の由来は、光秀の「光」から取られたという。佐目十兵衛会の見津新吉会長は「『みつ』と読むのはおこがましいから『けんつ』にしたと父親から聞いた。家には鎗(やり)や手甲など多くの武具が眠っていた」と回想する。
多賀出身説を伝えるのはこうした口伝のほか、町史には、光秀の父が佐目に住み、光秀自身も暮らしたとの説が紹介されている。多賀大社には、本能寺の変の数日後、光秀が「門前で暴れてはいけない」と兵に発した「禁制(きんぜい)」の文書が残っており、強い関係性をうかがわせる。
これまで、多賀出身説を史実として発信する具体的な動きはみられなかった。見津会長は「光秀は『謀反人』のイメージが強く、出身説を隠そうとする上の世代の人もいた。大河ドラマを機に、若い住民や出身者が地域に誇りを持ち、新たな光秀像を伝える地になればうれしい」と喜ぶ。
だが、今のところ、光秀が活躍した戦国時代の近くに書かれた、出身説を示す第一級の史料はない。
根拠として滋賀県が着目しているのが、江戸前期の貞享年間(1684~1688年)に編さんされた地誌「淡海温故録(おうみおんころく)」(琵琶湖文化館所蔵)だ。光秀の祖先が美濃から離反して佐目に住み、後に光秀は越前の朝倉家に仕官する。本能寺の変の後の山崎の戦いでは、多くの大名が加勢を拒む中、多賀の武士は光秀に味方した、と記されている。
滋賀県教育委員会文化財保護課の井上優さんは「光秀の出自は基本的にはっきりしない。正しい歴史を示すのに十分な史料とは言えないが、他地域の出身説にかかる古文書と比べると最も古く、佐目にひっそりと残る素朴な口伝と照らし合わせてもつじつまが合う。多くの人に知ってもらうべき、うまくできた伝承」と評価する。
多賀出身説を広く伝える機運の高まりを受け、町立博物館は2020年1月から、光秀ゆかりの展示や講演会を行う初のテーマ展を開く。学芸員の本田洋さんは「光秀は、信長に能力を認められ、坂本でいち早く城持ち大名になった文武両道の人。裏切り者のイメージよりも、能力の高さを純粋に見てもらうきっかけにしたい」と意気込む。
≪明智光秀≫
戦国―安土桃山期の武将。戦国大名の織田信長に引き立てられ、京都の行政や丹波攻略などに力を発揮。琵琶湖畔に坂本城を築城した。
1582(天正10年)年6月、本能寺の変で信長を討った直後、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、逃亡中に果てた。前半生は謎が多く、美濃国守護・土岐氏の一族と言われている。
<京都新聞より>