越後 正一(えちご まさかず)、1901年(明治34年) - 1991年(平成3年)は滋賀県出身の実業家、元伊藤忠商事社長・会長。
1901年(明治34年)4月26日、滋賀県愛知郡葉枝見村(現彦根市)に生まれる。
1916年(大正5年)2代目伊藤忠兵衛宅に書生として入り、同宅より学校に通い、八幡商業学校(現滋賀県立八幡商業高等学校)を経て、
1924年(大正13年)に神戸高等商業学校(現神戸大学)を卒業した。
伊藤忠入社後は数々の大相場をものにし「繊維相場の神様」と呼ばれ、伊藤忠商事を世界最大の繊維商社に押し上げる立役者となった。
特に、1927年(昭和2年)の綿糸布部長時代の大相場における大勝利は丸紅が綿糸経営から撤退するきっかけとなり、また、1930年代からの常務時代の毛糸買いは特に有名である。
1960年(昭和35年)の社長就任後は瀬島龍三らを重用し、伊藤忠の「総合化と国際化」を掲げ、非繊維部門の拡充と海外進出を推進した。
1974年(昭和49年)に社長退任するまでの14年間、日本が高度経済成長期という環境にあったものの、在任中に資本金6.5倍、人員2.7倍、売上高10倍、グループ会社数2.5倍と大きく発展した。
越後正一は、
伊藤忠を「総合商社」へと発展させた経営者で、小菅宇一郎の後を受けて、伊藤忠を「総合商社」へと発展させた、「伊藤忠中興の祖」と呼ぶ人もいる。
売上高で非繊維部門が繊維部門の割合を上回ったのも越後の時代であった。
越後は前社長小菅と同様に、伊藤忠きっての「繊維相場の神様」と呼ばれていた。
越後は、入社3年目には綿糸部の部長にピックアップされたというほど繊維取引の才能に恵まれた人材だった。
1927年(昭和2年)、綿糸部長時代、最大の競争相手だった会社と繊維の相場を張り合って見事勝利を納め、相手の会社を綿糸布市場から退場させたというエピソードが残されている。
越後はその「相場観」を次のように書いている。
「相場に最も大切なことは、先行き見通しであることは間違いないが、それをいつ仕舞うか、つまり売ったものは買いに、買ったものは売りに、いつ転じるかという、その転機が成功不成功の分かれ道になる。計算上いくら利益が上がっていようとも、実際にそれを手に入れなくては絵に書いたモチに過ぎない」(日経新聞社『私の履歴書』より)
越後は、その在任中に伊藤忠の業績を大きく伸ばし「1兆円商社」に押し上げたことで知られるが、時には事業計画が思うように進まず、敗退の憂き目も味わうこともあった。
そんな時に越後は、次の英語のフレーズを社員に示した。
The sun is always shinning behind the dark clouds.「黒雲の後ろには、太陽は常に輝いている」
<Wikipedia引用>