江戸時代後期、深溝村(現高島市新旭町深溝)の庄屋「藤本太郎兵衛」は、琵琶湖治水の難問と湖辺農民を苦しみから救いたいと立ち上がり、親子三代、50年をか けて、瀬田川川ざらえのため各組織に嘆願、自らの財産もつぎ込み尽力、ついに天保2年(1831年)に幕府から許可が下り「天保の御救大浚(おすくいおおさらえ)」と呼ばれる大事業を成し遂げた。
滋賀には琵琶湖の流入する川が119本もあって、雨が降るたびに大量の水が琵琶湖に注がれている。琵琶湖の水は、唯一瀬田川だけが排出している。瀬田川という川は、下流では宇治川とか淀川と呼ばれている川。119本の川の水を瀬田川1本では捌ききれず、江戸時代の琵琶湖沿岸は度々氾濫を繰り返していたようだ。
「ひとりはみんなのために」の心意気で、不可能とも思える治水事業に果敢に取り組んだ太郎兵衛。そして月日は流れ、琵琶湖総合開発事業の終結は平成9年(1997年)8月7日。 初代太郎兵衛から200余年の歳月の末、完結したのだった。
藤本太郎兵衛の業績をたたえた銅像は、平成6年(1994年)に地元の彫塑家川原林たまさんによって制作され、地元民の手で建立された。場所は高島市新旭風車村付近の湖岸。琵琶湖を背に凛々しく立っている。