間柴 茂有(ましば しげくに、1951年11月15日 - )は滋賀県大津市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。旧名は富裕。愛称は「ケロヨン」。
比叡山高校では2年次の1968年からエースとなり、3年次の1969年に春の選抜へ出場するが、2回戦(初戦)で鍛治舎巧のいた岐阜商に敗退。春季近畿大会では1回戦で桜宮高を相手にノーヒットノーランを記録。夏の甲子園県予選を勝ち抜き、京滋大会決勝に進出するが、渋谷通らを擁する平安高に延長11回の熱戦の末に敗れ、甲子園出場を逸する。
同年のドラフト2位で大洋ホエールズに入団。1年目の1970年4月22日に阪神戦(甲子園)で初登板を果たすが、最初の4年間は期待に応えられず、特に1972年は阪神戦3敗を含む6連敗と散々な内容であった。1973年のシーズンオフには整理対象選手となってしまうが、1974年に奮起。同年5月4日の中日戦(宮城)で初勝利を挙げると、いきなり5勝を記録してブレイク。1975年には3完封を含む開幕6連勝を飾るが、その後は7連敗を喫して夏場に二軍へ降格し、イースタン・リーグでは防御率0.69で最優秀防御率を獲得。6連勝目となった5月7日の広島戦(川崎)では自らのバットでサヨナラ犠牲フライを放っているが、この試合を最後に勝ち星から遠ざかり、1976年は4連敗と再びシーズン0勝に終わる。1977年4月17日の中日戦(千葉天台)で3年ごしの連敗を13でストップさせた。
1978年、野村収との交換トレードで杉山知隆と共に日本ハムファイターズへ移籍。登録名を「茂有」に改名すると、同年は自己最多の7勝を挙げる。1980年には植村義信コーチの指導でフォークを習得し、初の2桁となる10勝を挙げてオールスターゲームにも出場。1981年は開幕から連勝を重ねていき、9月1日の近鉄戦でパ・リーグタイ記録の12連勝、7日の南海戦(後楽園)で日本プロ野球タイ記録の13連勝、13日の阪急戦(西宮)で当時の日本プロ野球新記録の開幕から14連勝を達成。9月18日の西武戦(後楽園)で15連勝で、このシーズン15勝0敗で戦後初の「勝率10割」を達成し、最高勝率のタイトルを獲得。同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでも2試合に先発。第2戦は西本聖と投げ合うが8回に逆転され惜敗、最終第6戦は早々に打ち込まれ、いずれも敗戦投手となった。
1989年、福岡ダイエーホークスに移籍。コーチ兼任となった1990年、実働20年、500試合登板を達成し、このシーズン途中で現役引退。その後は1991年から1994年までダイエーの二軍投手コーチを経て、1995年にフロント入り。
<Wikipediaより>