花木 伝右衛門(はなき でんえもん、生没年不詳)は、江戸時代中期(元禄期)の彦根藩士。
花木 伝右衛門が、薬用牛肉「反本丸(へんぽんがん)」を製造し、これが「近江牛」を広く食する製品として扱われた最初の記録とされ、牛肉を食べることを禁じていた江戸時代に食用の先べんをつけたとされる。
彦根藩は、江戸時代牛のと牛肉生産を唯一公認されていた。元々武士にとって牛の皮は鎧や鞍などを作る材料であった。
彦根藩は譜代筆頭として京・西国に対する要地にあり、4千の兵力を維持するために牛馬の皮は欠かせない品物だった。
正保4年(1647年)、2代藩主井伊直孝が江戸藩邸から国元に送った手紙にも牛馬の皮の扱いについてこと細かな指示が記されていた。彦根藩が生産した皮革は、毎年陣太鼓用に幕府に献上し、また他藩にも販売されたと記録されている。
近江国(現在の滋賀県)の彦根藩では、甲冑づくりに使用する牛皮をつくる際に余った肉を味噌漬けや干し物として食していた。味噌漬けは「反本丸(へんぽんがん)」と呼ばれ、滋養強壮に効果のある薬とされた。
その始まりについては、次のようなエピソードが残されている。
17世紀末、彦根藩士である「花木伝右衛門」は江戸での在勤中、慶長年間に明(みん)から伝わった『本草綱目』(中国の薬学書)を読む機会があった。そこには、「黄牛の肉は佳良にして甘味無毒、中を安んじ気を益し、脾胃を養い腰脚を補益す」と、牛肉の効用が記されており、それを参考に、牛肉を味噌漬けにした食を考案したのだという。
当時、公然と肉食はできなかったので、薬のような「反本丸」と言う薬用牛肉を製造したことが記録として残っている。形状については何も記されておらず、生肉だったのか干し肉だったのか分かっていない。牛肉の味噌漬けとする説もある。
彦根藩では以降、特に牛肉の味噌漬けを将軍家や各地の大名への贈り物とする習慣ができ、諸侯に大変喜ばれた。
日本で牛肉食が一般的に普及し始めたのは、明治時代以降とされている。今日では、牛が生育された地域によって「○○牛」などと細かくブランド付けがなされており、高級食材となっているものもある。
仏教の影響もあり、明治時代に入るまでの日本では肉食は忌避すべきものともされてきた。しかし江戸時代、牛肉は表立った形ではなくとも一部の人々には食されていた。幕末期、諸外国による外圧が強まり開国を迫られる中、大老として国政を主導し、「桜田門外の変」によって志半ばで暗殺された井伊直弼(1815年~1860年)も、牛肉を好んで食していた一人とされる。また、直弼が藩主を務めた彦根藩では、当時から牛肉の味噌漬けが食されていたという。
大正時代には当時皇太子であった昭和天皇にも献上され、益々、広く知れ渡るようになった。元々は日保ちさせるために味噌漬けにされたが、牛肉を味噌に漬けておくと、時間とともに硬い肉が軟らかくなり調理もし易くなる。
<Wikipedia等引用>
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