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”スローライフ滋賀” 

【滋賀・近江の先人第66回】滋賀県初の陸軍大将・関東都督・中村 覚(彦根市)

中村 覚(なかむら さとる)、安政元年2(1854年) - 大正14年(1925年)は、陸軍軍人。華族。階級は陸軍大将従二位勲一等功二級男爵。

滋賀県には歴代4人の大将を輩出している。元彦根藩から同年配の中村覚(陸軍)と三須 宗太郎(海軍)の二人の大将を輩出していた。二人は西南戦争、日露戦争の経験者である。


中村 覚(なかむら さとる)、安政元年(1854年) - 大正14年(1925年)。陸軍大将。
三須 宗太郎(みす そうたろう、安政2年(1855年) - 大正10年(1921年)。海軍大将。
磯村 年(いそむら とし)、明治5年(1872年) - 昭和36年(1961年)。陸軍大将。
喜多 誠一(きた せいいち)、明治19年(1886年) - 昭和22年(1947年)。陸軍大将。

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 中村 覚は、彦根藩士中村千太夫(1818-1866年)の二男として生まれる。藩徒士を経て、陸軍教導団に入る。西南戦争に出征。日清戦争時には東宮武官・侍従武官を務めた。日露戦争に出征し、旅順攻囲戦で「白襷隊」の指揮官として負傷し、勇名を馳せた。
その後、東京衛戍総督など陸軍の要職や、関東都督侍従武官長を歴任した。

日露戦争
中村の部隊は、第3軍に編入された。南山の戦闘に参加後、旅順攻略にあたる。
旅順攻略戦は、既に2回の総攻撃を仕掛けていたがいまだ陥落せず、次の第3次総攻撃に大きな期待が集まっていた。11月26日に総攻撃を行うことが決定し、中村は別働隊として奇襲を担当した。無謀とも云えるこの作戦の指揮を取ることになった中村は、部下に「大勢の兵士が死んでいる。そろそろ上(将官階級)の者が死なないと申し訳が立たないではないか」と述べたと伝えられる。

編制された特別隊は、3000人の規模で要塞に対し夜襲を行うこととなった。所属兵士全員が夜間の味方識別のため白襷を掛けていたことから、この部隊は後に「白襷隊」と呼ばれた。出撃に際し中村は、「若し我倒れたら、指揮は渡辺大佐に代われ、渡辺が倒れたら大久保中佐が指揮を取れ、各部隊とも順次変わる者を決めておけ。ゆえなく後方に留まったり、隊伍を離れる者があれば斬れ!」と云う壮絶な訓示を行っている。
26日午前8時から攻撃を開始し、午後には歩兵部隊の突撃が始まったが、通常攻撃では陥落させることが出来なかった。夜になり中村の部隊が奇襲を行ったが、ロシア軍の反撃により全滅した。この戦闘で中村も負傷し、内地に送られる。

年譜
明治5年(1872年)7月 - 陸軍教導団に入る。
明治6年(1873年)11月 - 陸軍教導団卒。陸軍伍長任官。
明治7年(1874年)2月 - 陸軍兵学寮に入る。10月 少尉試補
明治8年(1875年)1月 - 歩兵少尉任官
明治10年(1877年)3月 - 西南戦争で別働第2旅団に編入され、出征。5月 - 歩兵中尉、10月 - 帰還
明治12年(1879年)3月 - 参謀本部管西局員
明治14年(1881年)4月 - 歩兵大尉
明治19年(1886年)5月 - 歩兵少佐・歩兵第10連隊大隊長
明治20年(1887年)4月 - 参謀本部第2局員
明治21年(1888年)5月 - 第1師団参謀
明治22年(1889年)12月 - 陸軍大学校教官
明治24年(1891年)4月 - 第5師団参謀、12月19日 - 皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)の東宮武官を拝命。
明治25年(1892年)9月 - 歩兵中佐
明治27年(1894年)8月30日 - 大本営侍従武官、12月 - 歩兵大佐・東宮武官兼侍従武官
明治29年(1896年)10月 - 侍従武官
明治30年(1897年)4月14日 - 歩兵第46連隊長
明治31年(1898年)10月1日 - 東部都督部参謀長
明治32年(1899年)9月 - 陸軍少将
明治33年(1900年)4月25日 - 台湾総督府陸軍幕僚参謀長
明治35年(1902年)3月 - 歩兵第2旅団長
明治37年(1904年)3月 - 日露戦争出征
明治38年(1905年)4月 - 教育総監部参謀長仰付、7月 - 陸軍中将
明治39年(1906年)2月 - 教育総監部参謀長
明治40年(1907年)1月 - 第15師団長、9月 - 歴戦の功により男爵の爵位を授けられ、華族に列せられる。
明治41年(1908年)12月29日 - 岡沢精の後を受け、第2代侍従武官長に就任。
大正2年(1913年)8月 - 東京衛戍総督
大正3年(1914年)9月 - 関東都督
大正4年(1915年)1月 - 陸軍大将
大正6年(1917年)7月 - 軍事参議官
大正8年(1919年)2月 - 後備役
大正14年(1925年)1月29日 - 没

家族
 中村謙一:子
  生没年:1882-1943
1925-1943 男爵
1926 鉄道省建設局長
1929 貴族院議員
 中村徹雄:孫
  生没年:1911-1975
1943-1947 男爵
貴族院議員

<Wikipedia等引用>

コメント一覧

中村俊介
中村覚
https://www.facebook.com/shunsuke.nakamura.735
はじめまして、曽祖父の名を検索してこのページにたどり着きました曾孫の中村俊介と申します。丁寧な記事を書いて頂き感謝申し上げます。曽祖父~父の墓は東京多摩霊園にありますが、彦根の大信寺さんに高祖父より前の先祖が眠って居ります。また、東京では三須宗太郎閣下のご子孫の方と交流があります。井伊家ご当主は彦根在住の為、中々お目に掛かる機会が少ないのですが、機会があれば彦根に伺いたく存じます。その節はよろしくお願い申し上げます。
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