薄あおい大空(大阪府豊中市:北の空)撮影:2016年3月6日
「早春の道」 自註 富士見高原詩集(尾崎喜八)より
「のべやま」と書いた停車場で汽車をおりて、
私の道がここからはじまる。
高原の三月、
早春のさすらいの
哀愁もまた歌となる
さびしくて自由な私の道が。
開拓村の村はずれ、
年若い母親と子供二人に山羊一匹、
薄あおい大空 雪の光のきびしい山、
まだ冬めいた風景の奥に遠く消えこむ枯草の道。
これが私に最初の画だ、歌のはじめだ。
私はこの画の中にしばしとどまる、
この牧歌にしばし私の調べをまじえる。
清らかな貧しさと愛のやわらぎ、
これが私たちのけさの歌だ。
第一歩の祝福がここにあり、
私のさすらいがここからはじまる。
私の道がここからはじまる。
高原の三月、
早春のさすらいの
哀愁もまた歌となる
さびしくて自由な私の道が。
開拓村の村はずれ、
年若い母親と子供二人に山羊一匹、
薄あおい大空 雪の光のきびしい山、
まだ冬めいた風景の奥に遠く消えこむ枯草の道。
これが私に最初の画だ、歌のはじめだ。
私はこの画の中にしばしとどまる、
この牧歌にしばし私の調べをまじえる。
清らかな貧しさと愛のやわらぎ、
これが私たちのけさの歌だ。
第一歩の祝福がここにあり、
私のさすらいがここからはじまる。
【自註】
待ち兼ねていた春が漸(ようや)くその気配を見せたので、
或る朝早く富士見から汽車に乗って八ヶ岳の東の裾野を、
昔書いた「念場ガ原と野辺山ノ原」への遠足に出かけた。
近くは権現や赤岳、遠くは奥秩父の金峯山や南アルプスの雪の峯々を眺めながら、野辺山の広大な白樺林を歩き廻ったり美ノ森へ登ったりして、晩くなったら清里の何処かへ泊ってもいいという至極のんびりとした遠足だった。
早春は私にとって何か知らぬが心に哀愁を覚える季節である。
それも場所が山や高原のような自然の中だと特にいちじるしい。
元来哀愁には常に或る種の美の要素が含まれている。
その美は私の場合、詩につながり音楽につながる。
或る音楽のえにもいえず美しいラルゲットやアダージョを聴いている時、それはいつでも私を喜ばせる歌であると同時に哀愁の歌でもある。
そしてそれが此処では野辺山の原の三月の自然の景観であり、開拓村の若い農夫とその子供たちと彼らの一匹の山羊だった。
私が自分をもまたその画中の一点景に加えたのは果たして僭越の沙汰だったろうか。
しかしたとえそうであっても、
伸びやかにすんなりと出来たこの詩は、
このまま永く一人でそのさすらいを続けるだろう。
*写真、地図は、ウキペディアより引用させていただきました。
*現地に赴き、「早春のさすらい」をスケッチをしたいものです。