尾崎喜八 実録です。
十五年のその昔、美砂子よ、お前は二歳、
私は幼いお前をかるがると背負い、
白い頭巾をすっぽりかぶせる。緑の毛布に厚くくるんで
まだ雪の消え残る信濃富士見の高原に
天上の春の最初の使信、
復活祭の雲雀の歌を遠く求めて歩いたものだ。
今、成人してその天からの春の知らせの深い意味を
ようやく身うちに感じている若いお前が、
年こそ経たれ、この同じ復活祭の夕暮れに
私のためにバッハのオルガン衆讃曲コラールを弾いてくれる。
そしてもうお前を抱く事も背負う事も叶わない私が
毛布を膝に、指を組んで聴き入っている。
しかしその年老いた今日きょうの私を
お前が憐み、いとおしむのはまだ早い。
私はこうして、ここにまだ在る。
まだいくらかの仕事の日々も許されている。
しかし、しかし、そういう私の存在が
やがて懐かしいこの世から消えた時、
或る春の同じ安息日の夕暮れに
お前はふと私の訪れを空気に感じて、
同じコラールを、花の窓べに。
一層深い思いで弾いてくれるだろうか。
されど同じ安息日の夕暮れに (朗読:尾崎喜八)<2分31秒>
十五年のその昔、美砂子よ、お前は二歳、
私は幼いお前をかるがると背負い、
白い頭巾をすっぽりかぶせる。緑の毛布に厚くくるんで
まだ雪の消え残る信濃富士見の高原に
天上の春の最初の使信、
復活祭の雲雀の歌を遠く求めて歩いたものだ。
今、成人してその天からの春の知らせの深い意味を
ようやく身うちに感じている若いお前が、
年こそ経たれ、この同じ復活祭の夕暮れに
私のためにバッハのオルガン衆讃曲コラールを弾いてくれる。
そしてもうお前を抱く事も背負う事も叶わない私が
毛布を膝に、指を組んで聴き入っている。
しかしその年老いた今日きょうの私を
お前が憐み、いとおしむのはまだ早い。
私はこうして、ここにまだ在る。
まだいくらかの仕事の日々も許されている。
しかし、しかし、そういう私の存在が
やがて懐かしいこの世から消えた時、
或る春の同じ安息日の夕暮れに
お前はふと私の訪れを空気に感じて、
同じコラールを、花の窓べに。
一層深い思いで弾いてくれるだろうか。