かんたん

2004.12ブログ人でスタート、2014.10gooブログに転居。

祖母の葬式

2006-06-26 15:00:00 | 日記・エッセイ・コラム

この文章は、本日掲載の「6月2日からの大分行きのこと」という文章の続編です。

6月8日に東京に戻る。僕も元気はでない。でも祖母はまだ持ちこたえてくれそうか。僕は今年も倉木麻衣さんのライブに多めに行くつもり。ちょうど今チケットがあちこちで発売になりつつあり、申し込みをしているところ。ぴあやイープラスなどに申し込む。6月11日からそのチケットの購入の都合で八代市と大分市に行った。6月12日大分市のホテルキャッスル大分に宿泊。

夜中午前3時ごろ母親から電話、4時ごろ叔母からメール。祖母が亡くなったそうだ。とうとうというか。あっけない。冷静さを保とうとすることが悪あがきのよう。朝早くホテルを出て、バスで大分空港へ。朝一の飛行機で東京に向かい、帰宅。準備し、午後の飛行機でまた大分県国東市安岐町へ。着替えをし、準備をし、通夜の席へ。祖母の4人の娘と三女の叔母の亭主、僕の母親の亭主(義父)、従兄弟では、三女の叔母の長男、四女の叔母の長男の二人、それの祖父の弟の長男、祖母の弟の子息、などがすでに詰め掛けていた。

祖母に会った。化粧を施され、まるで別人のような祖母。この前話をしていた祖母が今はもう何もしゃべらない。

三女の叔母の長女夫婦も戻ってきた。三女の叔母の長女ももちろん従兄弟で最近子どもが生まれたばかり。その亭主とははじめて会った。翌日は火葬、葬儀。納棺し、マイクロバスで火葬場へ行く。祖父のときは安岐町下原の火葬場だったけれども今回は国東町の中田というところらしい。待合室にいた。遠くに海が見える。景色のいいところで、みんな心の中ではいろいろ感じているのだろうが、湿った雰囲気はない。葬儀という儀式の最中で、まだ祖母の死にきちんと向かい合うという段階までいかないのだろう。

火葬された祖母。骨を拾う。

葬儀の行われる安岐町のコスモス会館に向かう。次女の叔母の次男と四女の叔母の長女も駆けつける。久しぶりに会う。次女の叔母の次男も26~29年ぶりくらいかな。関西の某国立大の助手として働いていると聞いている。四女の叔母の長女と話をしているようだったが、そういえば四女の叔母の長女も関西の某国立大院卒だった。みんなそれぞれの世界でがんばっているようだ。ちなみの僕は無職である。やはり祖母にとって一番の心配の種は僕だっただろう。

葬儀の席は久しぶりに見る人もいた。弔辞も懐かしい名前を聞く。家に戻る。読経。食事。家督を相続する三女の叔母の長男と僕と二人だけ残り、他の従兄弟たち、親戚筋は皆引き上げていく。僕も早めに席を去った。

親は僕にもうおばあちゃんが亡くなったのだから今後は困ったことがあったら親に相談してくるようにといってきた。でもうちの親はいつも僕の発言や行動を捻じ曲げて解釈したり、語呂合わせで解釈しようとしたり、反対のことを言うと決め付けようとする。消去法など悪用することもある。要するに僕の親は僕の発言を正しく理解しようとする姿勢がないのだ。それで相談に乗るのは無理でしょう。親の発言は言葉は立派だが、いつも実情に合わない。

翌日菩提寺に行く。小雨日和。お参りし、和尚さんの話を聞く。納骨堂の祖父に参拝。ここのお寺、西白寺のあるところが朝来地区。雨にしっとりとした山の樹木の緑色が印象的。透き通った水に満たされた水田。子どものころよく見た風景。僕の育ったところ。ほんのわずかに滞在し、また三女の叔母の家の戻る。

準備をし、僕と母親と父親の三人は、一足先に帰途へ着く。次女の関西の叔母夫婦はそのあと帰るらしい。僕の親は飛行機で東京へ向かう。僕は急ぐ必要も特になく、気分的にゆっくりしていたいという気持ちもあり、JRで特急と新幹線を乗り継ぎ東京へ。

僕に対する最大の理解者であった祖母の死。なんともいえぬ空虚感。相変わらず世間の付きまといなどの嫌がらせはすさまじい。少し気持ちを整理して、今年は、倉木麻衣さんのライブに行き、ライブを楽しみ、そしてそのあと再就職の予定。


6月2日からの大分行きのこと

2006-06-26 13:00:00 | 日記・エッセイ・コラム

この文章は、本日掲載の「その後の祖母のこと」という文章の続編です。

その後祖母の容態は徐々に悪くなっていったようだ。病院は国東市民病院のまま。確かにここだと叔母の家からもすぐ近く、見舞い、看病にも行きやすく、何か急なことがあっても対応しやすい。6月になってから、母親から連絡があり、いよいよ祖母も危ないのではないかということで、他の親族にも祖母のことを知らせたらしい。また、4月に僕が一度見舞いに行ったことを知らない親族は、僕にも知らせるように言ってきたらしく、大分にまた見舞いに行くことになった。

祖母の病気は、末期すい臓がんだけれどももう広範囲に転移しているらしい。6月2日に僕は午後の飛行機で大分に向かう。三女の叔母の出迎え。滞在中は、母親と関西の叔母は四女の叔母方、僕は三女の叔母方に滞在する。見舞いに行くと祖母は4月のときに比べずいぶん弱っているようで、4月のときは起き上がったり、もう少し流暢に話ができたのに、もう今では寝たきりで、よく聞き取れないような話しをするようになっている。それでも叔母の話だと5月の終わりに比べると少し持ち直したようだという。

何とか元気になってくれればいいと祈るような気持ちであった。少しは話ができた。やはり僕の健康と就職の心配をしている。気がかりなのだろう。僕は休みを取って見舞いに来たと告げた。弱々しく力のなさそうな祖母。

翌3日は、僕は一度午前中に見舞いに行くが、母親が言うには、昼間は医者、看護婦が頻繁に来て、診察、入浴、身の回りの世話をするらしく、夕方以降来た方がいいとのこと。看護婦さんなどがすごく良くしてくれるそうだ。僕は寝不足気味で、関西の次女の長男(僕から見ると従兄弟)が日帰りで見舞いに来るそうだ。あわただしいようなので僕は病室を去り、安岐の川沿いを少し歩き三女の叔母宅に戻る。

叔母の家に着くと、関西の次女の長男(従兄弟)が三女の叔母宅に来ていて、ちょうどこれから病院の祖母宅に向かうところだった。従兄弟とは今回チラッと顔を合わせただけだったが、26~29年ぶりくらいに顔を合わせるような気がする。ずいぶんと久しぶり。今回は話もしなかったが、子どもが生まれたばかりで、中京地区の某私立大学で講師をしているらしい。元気でがんばっているのだろう。あとで調べたら、大学の研究室の本人のホームページが見つかった。

僕はこの日から夜だけ祖母の見舞いに行くことにした。それ以外はただ叔母の家にいた。読書でもしようかと本を数冊持っていったが、とても集中できるような状況ではなく、ほとんど読まなかった。祖母のほうは、昼間僕の母親が看病し、夜は三女の叔母が看病する。昼間時々、次女の叔母も看病に来る。四女の叔母は仕事をしているので、朝夕に母親の送りとどけをする時と土日に病室に来る。

僕は6時半ころからだいたい8時前くらいまでいて、叔母の家に戻る。叔母はそのまま病院に残り看病という形であった。実際には微妙に違うときもあるようだが、だいたいこんな形だったようだ。見舞いが多いと祖母も疲れるようで、あまりきちんとしゃべることができない。でも日によっては割りとおしゃべりがスムーズにできるときもある。そんな状態を見ると厳しいのは承知しているが、何とか持ちこたえそうな気もしてくる。

三女の叔母の長男(これも従兄弟)も見舞いに来る。祖母を励ましていた。祖母もこのころには自分の病状はもうほぼわかっていただろう。厳しい状況であることも。僕もそうだが、他の親族の発言を見ても、ついうっかりなのだと思うが、祖母の死を想定したような発言が出てくる。そばに祖母がいるような状況でそんな話をする。もうやむ得ないというか、そんな気持ちになる。近いうちに死ぬのは確定だが、何とか少しでも持ちこたえてほしい、というような気持ちが支配的になっているのだろう。みんなも病状について祖母に隠そうという意識が低下しているように思える。

6日くらいになり、祖母が持ち直しはじめたようで、いつまで僕らが大分に滞在するかという問題になってきた。関西の叔母と僕の母親は交代で母親の面倒を見ようということになった。

僕は東京に戻ることを考え始めたのは、周囲の人間の不自然なまでの僕に対する行き過ぎた干渉である。たとえば母親は僕に対し大分にいる間も出歩くように言う。僕が太っていて健康が心配であり、ダイエットが必要という。毎日続けることが続けることが重要だと。だからウォーキングをやれという。ある部分それはもっともな意見であろう。しかし自分は大分に祖母の見舞いに来ているのだ。もう長くはないだろうといわれている祖母の見舞いに来ているのだ。ところがあれこれ言われ一日に一時間半しか会えず、ウォーキングをやれといわれている。何しに大分まで来ているのか。親など周囲の対応にも反発を感じ始めていた。僕はこのまま大分にいても一日1時間半しか会えず、祖母の病状もなんだかもう少し持ちこたえそうにも思えたので、一度東京に戻ることに決めた。

母親もそれとは別にやはり同じ8日に関東に戻ることにしたようだ。

僕は8日午前にまた病室に行き、祖母に挨拶をした。「また会いに来るから、元気で」。祖母も手を振っていた。

叔母の車でJRの杵築駅へ。叔母はしつこく母親と僕が仲直りするように勧めるが、叔母は僕の母親をわかっていないし、わかろうとしていない。僕と親が仲が悪いのは、祖母のせいではない。何度言ってもわからないらしい。わかろうとしていない。やはり僕と親や親族をつなぎとめていたのが、祖母。その祖母が死ぬということは、つまりどういうことなのか、うちの親や親族はわからないらしい。

うちの親や親族もおかしなもの。もう祖母に何度も会ったから満足だろう、などと言い出す。そんなものか。僕にとって身内で最も近い存在の祖母に何度も会ったから満足なら、親や叔母なども何度も会ったからもう十分だろう。

祖母は何かと悪者にされやすいところがある。祖母の性格上の欠点もあるが、それだけではない。親族が、祖母の気持ちを必ずしも正確に受け止めていないのに、「おばあちゃんが言ったから」、「おばあちゃんの気持ちを考えろ」などと他人の問題に関して勝手に祖母の気持ちを利用することもある。祖母に一方で問題行動をするように仕向け、他方でその祖母の行動をたしなめるような親族もいた。祖母の問題行為の背後には黒幕がいたのに、そいつは悪者にされず、祖母だけ悪く言われたり。弱そうなやつを悪者に仕立て上げ、本物の悪は平然と生きていく。祖母は実際以上に悪く言われ過ぎている一方、それを利用して優遇されているやつもいる。

正直なところすごく寂しい気持ちで特急、新幹線を乗り継ぎ、東京に戻った。

祖母のことについては続編として「祖母の葬式」というタイトルでこのあと文章を掲載します。


その後の祖母のこと

2006-06-26 10:00:00 | 日記・エッセイ・コラム

この文章は、本日掲載の「4月27日からの大分行きのこと」という文章の続編です。

4月30日東京に戻りました。就職活動は1社面接に行って不可。祖母を喜ばせたいという目的の就職活動。しかし、話に無理のある就職活動。親もその就職活動に便乗し、親自身の希望を追加しようという姿勢がある。祖母のことで自分自身気落ちし、就職を取り巻く諸事情に対し嫌気が差し、しばらく就職活動は中断することにした。僕が就職活動をすると無関係な人間がすぐ干渉してくる。お前たちに何の関係があるのか。それに僕が再就職を急いでいたのは、経済的に厳しくなったわけではない。祖母の問題があったからだ。

ところが僕が就職活動をすると、「お金がないだろう」と決め付ける大馬鹿者が出てくる。知能程度の低いやつだ。僕は祖母に約束していた。郵便局を退職したあと、貯金が半分まで減ったら再就職する。今年春に半分くらいになった。だから再就職の話をしていた。決してお金がなく貧乏だからではない。そこに今回の祖母の病気の問題が加わった。ところが多くの人間が馬鹿丸出しで、僕の就職問題に干渉し、挙句の果てに僕をお金がない貧乏扱いしている。

話がどんどんよじれ、おかしくなる。無責任な噂を流して面白がるやつがいる。こんな状況で就職活動やっても、希望が持てないだけでなく、不必要に不本意な結果を招く可能性が高い。日本人は本当に心が汚い。僕の親もお構いなく便乗しようとする。

就職活動中断。どうにも動きが取れない。飼い殺しの状況。祖母のことはあくまでも母親とその3人の妹のみ、主導で話しを進めるつもりらしい。僕以外のいとこたちはそれで満足なのだろうか。他の親族はそれで満足なのか。僕自身もう生前の祖母には会えない可能性が高い。ここ数年僕が祖母に会うときはいつも母親や母親の妹の叔母がいる状態でしか会えなくて、思うように祖母とは話ができなかった。僕と祖母が会うことに対しても、母親や叔母は自分たち主導で決めようとしていた。

そして今回の祖母のことや病状を他の人には伝えないこと、今後の葬儀やそのときの滞在場所なども早々と母親や叔母たち主導で勝手に決められていた。僕はそんな母親やおばたちの勝手に話を進める姿勢に対し嫌気が差し、また僕自身母親や母親の亭主とは不仲であることからも、葬儀に参列するのは取りやめることも考えていた。ところが葬儀に参列するかどうか、それも母親は勝手に決めているらしい。

母親とその亭主は創価学会員である。創価学会員がみんなそうなのか知らないが、うちの親は、意地悪で、語呂合わせや駄洒落を僕に当てはめたり、安易な傾向分析で僕の行動を勝手に決めたり、反対のことを言っているなどと自分の都合で決め付けたり、親のことを言っているのに自分ことを言っているのだろうなどと決め付けることも多い。それは他人が僕に接するのと同じだが、親だと他人以上に利害が絡むことが多く、話がゆがみ、デマの原因になりかねない。特に僕の親はその傾向が昔からとても強い。

東京に戻ってしばらくし、親から祖母の入院先が変更になるとか、ならないとか言ってきた。病室は変更になるようだ。その後のことはよくわからない。5月の終わりごろになって、祖母は酸素吸入が始まったといっていた。今まで数年の間、母親や叔母を中心に話しが進められていた。僕らは蚊帳の外扱い。今後どういう行動をすべきかについても母親や叔母たち主導で勝手に決められるのだろう。僕はうんざりしているが、いとこや他の親族はそれでいいのか。祖母はそれでいいのか。

今回のことでは母親やその姉妹も看病などがんばっているようだ。だが、僕の人生において僕を一番苦しめたのは、母親である。うちの親族を一番引っ掻き回したのは、母親とその味方の妹たちである。この期に及んでも。

祖母は93歳である。年齢と自分の症状を考えれば、もう自分が長く生きられないのではないかと、そんな気持ちになっても仕方がない。それにもかかわらず、病状に気付かない様子をしている。本当に気付かないのか。気付いていて、逆に周囲の人間を悲しませないように気丈にがんばっているのではないか。それに比べ、周囲の人間の愚かさ。

母親は大分に行こうと思えばいける立場にいる。でも完全介護だから他の叔母が行っていて、二人も行っても仕方がないといっている。自分の親が死にそうなときに、そういう態度が奇妙に思える。その後関西の叔母が大分の滞在を伸ばしたということで、また母親は大分行きの予定を延ばす。さらに5月29日に行く予定だったのに、祖母が29日は縁起が悪いと言っていたといい、30日に大分に行くことにしたそうだ。

母親は僕とは立場が違う。行こうと思えばいつでも大分に行ける。向こうの親族の受け入れ態勢もできている。にもかかわらず、あれこれ理由をつけなかなか大分に行こうとしない。親が死にそうだというときにしては異常な行動である。日ごろの母親の発言に比べても変である。おまけに関西の叔母ももうすぐ母親が死ぬかもしれないときにまた関西に戻るのか。わけのわからない一族だ。

もちろん祖母の病状も一進一退で、持ち直しそうなときもあるから、関東や関西など遠くから行くほうは、なかなか判断が難しい面もある。

母親も叔母も本心では、祖母に対してあまり好意的でないのか。何か他に事情があるのか。祖母にはものすごく世話になっているはずなのに。単純でない心情もあるのかも知れぬ。責められない部分もあるかもしれないが、誰か横槍を入れているやつがいるのか。横槍を入れるやつがいてもいつも自分主導で物事を決めているのだから、跳ね除けることも可能だろう。

話を聞いていても不自然、流れてくる情報も断片的。どうあっても母親や叔母たち主導でこのまま話しを進めようとしているらしい。葬儀のことだけ早々と決めているようだ。正直に言って先が思いやられる。僕はもしかすると祖母の葬儀には参列しないかもしれない、とその時点では考えていた。

祖母の葬儀には参列するしないはともかく、また他の親族に会う、会わないはともかく、僕は一応6月上旬には一度大分に行こうと思う。祖母にきちんと接することができないのはもはや仕方ない。親族の近くには行かないかもしれない。僕だって周囲の人間の嫌がらせのすさまじさを考えたら、楽観的になれることなんぞほとんどありはしないのだ。

祖母のことについては続編として「6月2日からの大分行きのこと」というタイトルでこのあと文章を掲載します。


4月27日からの大分行きのこと

2006-06-26 08:00:00 | 日記・エッセイ・コラム

この文章は少し前のことを書いた文章。4月27日から僕は大分に行った。そのときのこと。

その少し前4月16日(14日?)に大分県の国東市(今年3月まで東国東郡の安岐町)に住む祖母から電話があった。久しぶりに電話で話をした。風邪で熱があったそうだがもう良くなったといっていた。年齢が93歳ということもあり、不安にも感じるが、元気になったのだろうと安心した。

ところがその直後、千葉県に住む母親から連絡があった。祖母が入院した。病名は末期すい臓がんだということ。びっくりした。母親は一足先に大分に向かった。僕は若干の私用を済ませ、少し遅れて大分へ向かった。祖母の子どもは4人。もともと5人きょうだいだったが一人早逝。現在は4人で全員女性。長女が僕の母親で千葉県在住。次女は関西在住。三女、四女が大分県国東市の安岐地区在住。先祖の家督を相続しているのは三女夫婦。最近では祖母もずっと三女夫婦と暮らしていた。

同じ国東市旧安岐地区の朝来というところが、僕の育ったところであり、祖母が長く生活したところでもあり、僕の母親ら四姉妹の生家でもある。その家は今では三女夫婦が農作業のために時々立ち寄る程度で、日ごろは無住になっている。

祖母の病気のことは4人の姉妹で話をして、祖母や僕たち孫の世代には一切伝えないことにしたらしい。知らせると祖母が落ち込んで病状に良くないだろうという配慮、孫が次々と見舞いに来て祖母が自分の病状に気づくのではないか、知らせないほうがいいだろうと考えたらしい。祖母の病気については四人の姉妹だけの秘密にして、その亭主たちは知っているだろうが、僕たち孫の世代には知らせないということで話がまとまったらしい。

だけれども僕は子どものころから祖母に育てられた。高校を卒業するまでほとんど祖母に育てられた。僕が誰よりも祖母を慕っていることは母親も知っている。母親はこっそり他の姉妹には知らせず、僕にだけ教えてくれたらしい。そして僕は母親に話を一部合わせ、叔母や他の親族に会わずに祖母の病気見舞いに行くことになった。

三女夫婦の家のほうが病院に近く便利なのだけれども、ちょうど三女夫婦の娘(僕から見るといとこ)に子どもが生まれたばかりで、ばたばたしている。もちろん三女夫婦の娘も祖母の病気は知らない。母親は四女の家に泊まる。次女も大分では四女の家に泊まっていたが、次女も息子(僕から見るといとこ)に子どもができたということで関西に戻っていった。

当初の予定では5月のゴールデンウィーク中まで大分に滞在し、一度東京に戻ることを考えていた。ゴールデンウィーク中ということで、宿泊など予定が立てにくい。それに他の叔母やいとこには知られないように見舞いに行くということで、僕はホテルか旅館に宿泊することになった。最初に一泊目が思うようにホテルが決まらず、大分市内の駅に近いところに宿泊。ここはもう何度も利用したビジネスホテルほがらか。夜は府内食堂で食事。

翌日28日朝早く大分空港行き特急バスに乗る。国東市の安岐地区は大分空港のあるところで、空港を利用しない場合でも、このバスが便利。祖母の入院している病院は以前、東国東広域病院といったが、今年3月に市制施行に伴い、国東市民病院となっていた。空港からバス停で三つくらい戻ると国東市民病院につく。

携帯電話で母親に連絡を取る。母親の話だと祖母は余命1ヶ月だそうだ。病室に行く。祖母はここのところ食欲がなく、点滴ばかりだという事で弱っているようだ。また腹痛が続いているらしい。昨年11月に別府で会って以来、久しぶり。ずっとそばにいると疲れてしまうらしい。ロビーや休憩室に行ったり、また病室へ戻ったり繰り返し、少しずつ祖母と話をする。

祖母は何より、僕がまだ就職していないということに対し、あまりよく思っていないらしい。見舞いになんか来なくても良いからさっさと再就職先を決めて、それで安心させてもらいたいらしい。しばらく大分に滞在するつもりだったが、早く東京に戻って再就職をするように勧められる。母親も完全看護の病院でもあり、ずっといても祖母が疲れて眠ってしまうので、ロビーや休憩室に行く時間が長くなるらしい。関西の次女もまた大分に来るらしいということで、母親も予定を切り上げて早めに一度千葉県松戸市に戻ることにしたようだ。

僕も仕方なく従うことにした。僕はその日国東市の大分空港ホテルの宿泊予約をしてあったのでそこに行く。広い部屋だった。近くにコンビニファミリーマートもある。ここら辺は僕が国東高校の生徒だったころ2年の夏以降、毎日バスで通学した道路。通学の半分は自転車だったけれど。望海苑やいこいの村はすでにあったが当時まだ大分空港ホテルはなかった。初めての宿泊。

翌日病院に行こうとしたら、母親から連絡。三女の叔母夫婦が病院に寄るらしい。その時間を避けて病院に行くことにした。病院に着くと食堂に行く。なかなか良い感じの食堂。それから病室へ行き、また話をする。昨日よりは少し元気そうだが、相変わらず腹痛が治まらないらしい。ずっと祖母に心配をさせ、世話を焼かせ続けたのに僕は何もしてあげられない。

昼過ぎ母親はちょっと買い物に行く。僕は病室の祖母のところに行く。祖母の話し声が聞こえる。母親がもう病室に戻ったのかと思い、うっかり話しかけたら三女だった。他の人間に知られないようにということだったのに、よりによって三女の叔母とばったり顔をあわせてしまった。叔母とは外で少し話した。母親に聞いていた話とかなり違う面がある。

もともとうちの親族の話というのは、本人に直接話を聞くのと間接的に話を聞くのでは、大きな違いがあることが珍しくない。しかもそれを利用している部分があるから、うちの親族とは付き合いにくい。母親は適当に話しをあわせておけば良いというが、あまりにも事前に聞いていた話と事情が異なる。話をあわせられない。ばればれになってしまった。叔母は家に帰っていった。

しばらくすると母親が戻ってきたが、母親はすごく怒り出した。適当に話しをあわせておけば良い、これでは自分が叔母たち(母から見て妹)から悪く言われていしまうと嘆く。確かに母親は僕に気を遣ってこっそり教えてくれたのだから、立場上まずいのだろう。でもこちらにしても今回の話は不自然なところ、どう見ても整合性がないのに整合性があるとされているところ、どこまで話をあわせてあり、どこから話をあわせていないのか、すでに混同されて事実誤認になり、話としておかしい部分が出てきている。それでいて話をあわせろ、適当にあわせておけば良いといわれても対応に苦慮する。

母親と言い合いになったが、難しい部分もある。叔母たちもそれぞれに言い分があって勝手なことを言っている。話はめちゃくちゃになる。祖母のことを気にしつつも、何もできない無力感。祖母の部屋に行く。窓際の部屋で海が見える。大分空港に着陸する飛行機も見える。目の前は小学校。景色のいい部屋である。具合は悪いのだろうが、普通には会話できる。ずっと長くいると疲れるらしい。しばらく話をして、祖母がトイレに立つとき、少し早めに僕は部屋を出て、病院の前のバス停のベンチに座る。

もう祖母に会えないのかな。僕は多くの人間にでたらめな噂を流し続けられている。誤魔化そうとし、自分の行動を正当化しようとする人間もいるかもしれないが、攻撃の頻度がものすごく多い。親ですら僕のことを信用せず、語呂合わせや駄洒落を当てはめようとする。他の親族も僕に対する信用はない。僕も相手を嫌う。そんな中で唯一僕の発言や心情を信用してくれているのが、祖母である。もちろん十分信用しているわけではなく、祖母も母親や他の親族よりの姿勢を示すことも多い。

それでも半分は祖母は僕を信用してくれているらしい。いわば世界でたった一人の理解者である。その祖母があと一ヶ月の命。こんなことなら、もっとやっておくべきことがあった。ここ数年僕は祖母とゆっくり話しをすることができなかった。叔母の家にいると叔母が一緒にいることも多く、母親がいると母親が一緒にいることが多く、祖母とゆっくり二人で話をすることは少なかった。もっといっぱい話をしておけばよかった。話したいこともあったのに、ほとんど話せなかった。ここ数年ずっとそうだった。人生とはある面こういうものなのだろうが、無念である。

僕はホテルに戻る。母親からは携帯に電話があるが、もう話がおかしくなっている。僕が29日に東京に戻るつもりで話をしている。僕は30日に戻るといってあった。母親も自分自身の思惑もあり話がどんどん変わっていく。それにあわせていたら、むやみにホテルをキャンセルばかりになるだろう。相手の判断に任せればよいのだ。僕はせっかく国東まで来たのだから、一日だけ街をぶらっとしようと考えていた。そのあと僕の携帯電話が故障した。

ホテルから海のほうに出る。ごみがある。でも少ない。僕が小学生のころ安岐の五馬の松原という海岸に行くとごみが大量に打ち上げられていて、野球のボールもいくつも見つかるので拾って回ったことがあった。それに比べるとここはごみが少ない。海に突き出た堤防は鳥の糞で汚いので行かない。小原というところの清流川の横を通る。橋を渡り海岸のほうへ。僕は国東高校卒だけれども、このあたりに来るのは初めて。ちょうど国東中学校の向こう側の海岸を通るが、海岸から見上げるようなところにお墓がたくさんある。ここら辺は海岸にお墓が多い。

途中でしばらく海を眺めていた。祖母のこと、話として変なところもある。病気が間違いであってほしい気もする。深い脱力感。漁港のところからマルショクに行く。ここは僕が高校生のときにすでにあった。店の一角にうどん屋があった。手前の百龍というラーメン屋に入る。少し位置が違うように思うが、この店は僕が高校生のときもあった。でも一度も利用したことがなかった。高校時代、同級生はあまり美味しくないといっていた。でも今回食べたら結構良い。素朴な美味しさがとても良い。

マルショクのお惣菜売り場で買い物。裏の川沿いのところで景色を見ながら食事。通りがかる人が気さくに「こんにちは」と声をかけてくる。田舎はこういうことは珍しくないが、僕は見覚えがない。知っている人だろうか。僕の高校時代の同級生にしてももう20年以上あっていないから、今見ても紹介されないとわからないだろう。

自転車競技の格好をしている人もいるがこれはなんだろう。東京でも時々見かける。競輪をやるなということか、別にやる予定はない。マルショクに戻り、白い餡のタイヤキやお菓子を買う。警察の近くのバス停にいたら、初老のおじいさんが話しかけてくる。顔つきを見るとなんとなく見覚えがある。誰だろう。もしかして知っている人か。よくわからなかった。バスでホテルに戻る。

なんだかぐったりしてしまった。翌日30日東京に戻ることにした。JRの利用。うっかり7時ごろホテルを出てしまった。バスがあるだろうと思ったら、次のバスは8時過ぎで1時間バス停で待つ。通りがかる人が挨拶をしてくれる。田舎では確かに普通だけれども、知っている人なのかな。平日だとJR杵築行きのバスがあるけれども日曜日でない。日曜は特にバスの本数が少ない。大分行きに乗り杵築バスターミナルで降りる。途中、国東市民病院の前を通る。

杵築バスターミナルで降りる。ここは祖母に何度も連れて行ってもらった街。僕は子どものころ特に幼稚園から小学校低学年まで病弱で、病院通いが多かった。ここの杵築中央病院に連れられてきた。歯医者は広岡歯科医院。病院にはいる道のちょっと先にあったお好み焼きやたこ焼きの店、バスターミナルの中にもたこ焼きの店があった。結構好きでした。寿屋やずっと以前にあったマルヤの飲食店、祖母に連れて行ってもらったことを良く覚えています。

バスターミナルも以前はもっと大きく、裏側にスーパーがあった時期もある。大分交通のバスだって僕が子どものころ特急だけでなく急行があった。杵築も変わったようでいて、変わっていない部分も多い。祖母との思い出と重なる部分が多い。その部分については、他の人は誰も知らない。

JR杵築駅行きのバスに乗る。国東観光バスという。据場、新道、宗近を経由していくバス。宗近は今は亡き祖父の姉に当たる人が住んでいた。白い服の若い男が乗っている。僕を知っているのかな。僕のほうはわからない。JRの駅に着く。ここの駅も思い出深い駅。何度も利用した。幼稚園のころ関西に住む叔母がのところに祖母と一緒に行ったときこの駅から寝台列車で関西へ向かった。車窓から見える色とりどりのネオンサインが印象的だった。

大学入試で関東に僕が来たとき、すでに親は松戸市に移り住んでいたが、僕はそこに向かった。当時関西の次女の叔母が具合が悪く、祖母が家事の手伝いにその叔母の家に行くことになった。祖母は自分の娘の出産や病気のとき、手伝いにしばしば行っていた。JR杵築駅から僕と祖母は同じ特急に乗り、小倉で新幹線に乗り換える。祖母は京都で降り、僕は東京に向かった。大学入試で僕は学習院と法政に合格、学習院に入学。祖母はとても喜んでくれたようだ。ずいぶん前の話になるな。杵築駅で切符を買う。臨時の特急があるということでそれで早めに帰ることにした。30日夜には東京の自宅に戻っていました。

僕に対するする四方八方からの嫌がらせ、とどまるところを知らないようです。相変わらずのデマ、付きまとい、語呂合わせや駄洒落を当てはめる行為、暗示にかかりやすいのでっち上げ、二者択一や消去法、絶対評価、相対評価の悪用、反対のことばかり言うの決め付け、プライバシーの侵害などの嫌がらせは相変わらずすさまじく続いているようです。さらに続いて、祖母がらみのおちょくりも増えてきました。プライバシーの侵害という立場からは知らなかったでは済まされないでしょう。許す必要もないでしょう。

携帯電話は故障していましたが、新品と交換になりました。祖母にせめて喜んでもらうのは、早めに再就職するしかないのですが、一社面接に行って不可。周囲の嫌がらせも相変わらずすさまじく、自分自身の気持ちをもすっかり滅入り、とりあえず再就職活動は延期することにしました。再就職活動は今年11月以降、場合によっては来年です。

祖母がすごく心配しているらしく、仕方なく三女の叔母が僕がもう就職が決まったと言ったそうです。祖母はどうしているだろう。本来なら僕自身が祖母に就職が決まった報告をしないといけないのに。このままだと生前、報告するのは無理だし、ウソの報告をするのも三女の叔母などに祖母にどう説明したか聞かないといけない。三女の叔母に連絡するのも事情があって直接は無理そう。もう何もできない。結局祖母が生きているうちは、僕は祖母に何も恩返しはできなかった。何も良い報告はできなかった。

ただ世間は理由はどうあれ実情はどうあれ僕を悪者にしたがっている。せめて墓前にでもきちんとした報告をしたいが、僕に対する嫌がらせのすさまじさを見ると、どうなるかわからない。人の心は本当に汚い。

祖母のことについては続編として「その後の祖母のこと」というタイトルでこのあと文章を掲載します。