注目していた小平市の住民投票の結果が出た。結果は、投票率35%で開票せずとなった。
これは1963年に都市計画決定された都市計画道路の未着工部分のうち、小平市内分の計画を「住民参加により見直す」か「見直しは必要ない」かを問うものだった。開票にあたっての50%条項があり、投票率が50%にならなかったためである。
住民投票制度について、特に押さえておくべきは、住民投票には法的拘束力がなく、執行部や議会が判断する際の「参考意見」に過ぎないという点である。ここは、憲法改正の国民投票とは違う。そこから、参考なのだから、35%でも、その内訳を明らかにしてもよいのではないかという意見も出てくる。
しかし、法的意味と政治的意味を区別する必要がある。
たしかに法的には参考意見であるが、政治的には、事実上、拘束的な運用になる。市長も議員も事実上、投票結果に縛られるのである。だから、小平では、3000万円の税金を使って、住民意思を確認しようとしたのである。もし、単なる参考意見で、「ああそう」という取扱いならば、こんな莫大なお金をかけ、エネルギーを使わないだろう。事実上、市政を縛るからである(ただし、私は、市民の多数が「そうだ」といっても、違うというべきとき「違う」というのが政治だと思っている。ドイツでは、かつて市民の多くが、ユダヤ人を隔離しろと意思表明した。その場合、多数に追従するのではなく、「それは違う」というのが本来の政治家である)。現実の市民は、間違えることもあるからである(日本の場合、日中戦争で同じことがあった)。
そうはいっても、みんなが「そうだ」と言っているのに、「違う」というのは、勇気がいることで、生半可でできることではない。だから、住民投票の結果に、事実上、拘束されることになる。
そうすると、少ない投票ではいけないということになり、50%条項が現実的な仕組みとして、提案される。
全体の論調では、投票した35%の意向に注目が集まっているが、同時に重要なのは、投票しなかった65%についてであろう。
なぜ65%の人は、投票に行かなかったのか。いくつかの理由が推察される。
①二者択一では選べない。
緑ももちろん大事だし、交通渋滞も困る。今回のケースでも、どちらも大事なのだから、両者が対立し、せめぎ合っている。それを二者択一ではとても決められない。
②よく分からない。
どっちのほうがベターなのか、正直よく分からない。①とはかぶるだろう。
③興味がない。
興味も関心もないという人も、実際には結構多いだろう。関心がないから、投票があるのを知らなかったという人もいるだろう。
④積極的に投票に行かない
こちらは50%条項を盾にとったボイコット運動である。数は少ないだろうけれども、そう考えた人もいるだろう。
⑤どうせ開票されない
市長選挙でも30%台であるので、とても50%にはならないだろう。投票に行っても無駄と考える人もいるだろう。
そのほか、どんな理由があるだろうか。
この人たちを分類すると、
①、②、③は消極的な現状維持派である(すでに決定されたことを積極的にひっくり返す意思はないという立場である。よく分からないので、今のままでよいと考える)。このサイレント・マジョリティ(マイノリティ?)の意見や思いを斟酌し、政策に昇華するのは、現行の仕組みのなかでは、首長や議員の役割である。
④は、積極的な現状維持派である。
⑤には、現状否定派(変えたいと思っている人)もかなり混じっているだろう。
細かな比率は分からないが、全体としては、住民投票に行かなかった人には、現状維持派=すでに決定されたことを積極的にひっくり返す意思はないという立場の人が、多いということになるだろう。
このように考えると、50%条項は、本当に正しいのかということにもなる。50%というのは、有権者全体の25%+1名で、決定できるということである。残りの75%-1名のほうが、もしかして多数意見かもしれないという不安は、為政者ならずとも、不安に思うだろう。
これに対して、ドイツでは、「例え投票率が3割でも4割でも、参加して何らかの意思を表明した多数派の意思が具現化されるべきであって、参加しない人たちの意思が通っていくなんていうのは、民主主義の崩壊につながる」(http://www.magazine9.jp/tairon/index2.php)という意見があるそうであるが、何と傲慢な意見だろう。「文句があるんだったら参加しろ」ということであるが、生活や判断能力など、人さまざまな理由で、参加したくてもできない人たちもたくさんいるのに、ずいぶんと冷たい意見だと思う。
ちなみに市長選挙の投票率が30%台なので、「住民投票を開票せず」ならば、市長はその資格がないといった意見があったが、これは子ども喧嘩のようで、せっかくの運動の品位を下げてしまう。
市長選挙の投票率が低いのは、市長はだれがやってたいして変わらないと思っているからで、それは逆に言うと、決まった人がやっても別によいという消極的選択である。選択の意味が、二者択一の住民投票とは違っている。
すでに何度も論じたように、住民投票は一面、権力的な制度である。さまざまな違いを捨象して、AかBかの選択を迫るからである。少数者であるBは、数の力でねじ伏せられることになる。ここが、住民投票の負の部分であるし、私が住民投票が苦手な理由である。
なぜならば、私たちの憲法には、個人が尊重されると書かれていて、私たちの社会は、小さな声、弱い声も大事にされる社会である。
私たちの民主主義は、数の力で正邪を決めるのではなく、AにもBにも価値があり、それぞれの良さを止揚してCを考え出せという社会である。それでないと、小さな声、弱い声は、ずっと埋もれたままになる。
それでもAかBかの選択を迫る住民投票が主張されるのは、地方自治において間接民主制の仕組みが、市民の思いを吸収するに十分でないからである。だから市民参加や協働の仕組みが重要で、小平市は、その取り組みを一生懸命始めてきている。それらの実践は、地味で根気がいる仕事であるが、今回の住民投票のエネルギーが、こちらに向かえば、きっと、よい仕組みができるようになる。大いに期待したい。
追伸
早速、授業で取り上げてみた。学生たちの反応は、単純に二者択一では決められない=投票には行けない(棄権)というものだった。
直感的には、緑の保全に魅かれるが、そこからさらに、そこに暮らしている人たちに思いを馳せると-例えば、一刻も早く、こどもを病院に連れて行きたいが、道路がないために渋滞に巻き込まれ、救急車の中でハラハラしているお母さんを想像すると、やはり道路整備も必要ではないかというものである。
想像力を働かせ、さまざまな状況にある他者に思いを馳せると、○×で簡単には決められるものではない・・・という意見で、とても健全だと思う。
投票をした35%の人は、どこまで斟酌して(どのように折り合いをつけて)、○をつけたのだろうか、そこが興味深いという話になった。
これは1963年に都市計画決定された都市計画道路の未着工部分のうち、小平市内分の計画を「住民参加により見直す」か「見直しは必要ない」かを問うものだった。開票にあたっての50%条項があり、投票率が50%にならなかったためである。
住民投票制度について、特に押さえておくべきは、住民投票には法的拘束力がなく、執行部や議会が判断する際の「参考意見」に過ぎないという点である。ここは、憲法改正の国民投票とは違う。そこから、参考なのだから、35%でも、その内訳を明らかにしてもよいのではないかという意見も出てくる。
しかし、法的意味と政治的意味を区別する必要がある。
たしかに法的には参考意見であるが、政治的には、事実上、拘束的な運用になる。市長も議員も事実上、投票結果に縛られるのである。だから、小平では、3000万円の税金を使って、住民意思を確認しようとしたのである。もし、単なる参考意見で、「ああそう」という取扱いならば、こんな莫大なお金をかけ、エネルギーを使わないだろう。事実上、市政を縛るからである(ただし、私は、市民の多数が「そうだ」といっても、違うというべきとき「違う」というのが政治だと思っている。ドイツでは、かつて市民の多くが、ユダヤ人を隔離しろと意思表明した。その場合、多数に追従するのではなく、「それは違う」というのが本来の政治家である)。現実の市民は、間違えることもあるからである(日本の場合、日中戦争で同じことがあった)。
そうはいっても、みんなが「そうだ」と言っているのに、「違う」というのは、勇気がいることで、生半可でできることではない。だから、住民投票の結果に、事実上、拘束されることになる。
そうすると、少ない投票ではいけないということになり、50%条項が現実的な仕組みとして、提案される。
全体の論調では、投票した35%の意向に注目が集まっているが、同時に重要なのは、投票しなかった65%についてであろう。
なぜ65%の人は、投票に行かなかったのか。いくつかの理由が推察される。
①二者択一では選べない。
緑ももちろん大事だし、交通渋滞も困る。今回のケースでも、どちらも大事なのだから、両者が対立し、せめぎ合っている。それを二者択一ではとても決められない。
②よく分からない。
どっちのほうがベターなのか、正直よく分からない。①とはかぶるだろう。
③興味がない。
興味も関心もないという人も、実際には結構多いだろう。関心がないから、投票があるのを知らなかったという人もいるだろう。
④積極的に投票に行かない
こちらは50%条項を盾にとったボイコット運動である。数は少ないだろうけれども、そう考えた人もいるだろう。
⑤どうせ開票されない
市長選挙でも30%台であるので、とても50%にはならないだろう。投票に行っても無駄と考える人もいるだろう。
そのほか、どんな理由があるだろうか。
この人たちを分類すると、
①、②、③は消極的な現状維持派である(すでに決定されたことを積極的にひっくり返す意思はないという立場である。よく分からないので、今のままでよいと考える)。このサイレント・マジョリティ(マイノリティ?)の意見や思いを斟酌し、政策に昇華するのは、現行の仕組みのなかでは、首長や議員の役割である。
④は、積極的な現状維持派である。
⑤には、現状否定派(変えたいと思っている人)もかなり混じっているだろう。
細かな比率は分からないが、全体としては、住民投票に行かなかった人には、現状維持派=すでに決定されたことを積極的にひっくり返す意思はないという立場の人が、多いということになるだろう。
このように考えると、50%条項は、本当に正しいのかということにもなる。50%というのは、有権者全体の25%+1名で、決定できるということである。残りの75%-1名のほうが、もしかして多数意見かもしれないという不安は、為政者ならずとも、不安に思うだろう。
これに対して、ドイツでは、「例え投票率が3割でも4割でも、参加して何らかの意思を表明した多数派の意思が具現化されるべきであって、参加しない人たちの意思が通っていくなんていうのは、民主主義の崩壊につながる」(http://www.magazine9.jp/tairon/index2.php)という意見があるそうであるが、何と傲慢な意見だろう。「文句があるんだったら参加しろ」ということであるが、生活や判断能力など、人さまざまな理由で、参加したくてもできない人たちもたくさんいるのに、ずいぶんと冷たい意見だと思う。
ちなみに市長選挙の投票率が30%台なので、「住民投票を開票せず」ならば、市長はその資格がないといった意見があったが、これは子ども喧嘩のようで、せっかくの運動の品位を下げてしまう。
市長選挙の投票率が低いのは、市長はだれがやってたいして変わらないと思っているからで、それは逆に言うと、決まった人がやっても別によいという消極的選択である。選択の意味が、二者択一の住民投票とは違っている。
すでに何度も論じたように、住民投票は一面、権力的な制度である。さまざまな違いを捨象して、AかBかの選択を迫るからである。少数者であるBは、数の力でねじ伏せられることになる。ここが、住民投票の負の部分であるし、私が住民投票が苦手な理由である。
なぜならば、私たちの憲法には、個人が尊重されると書かれていて、私たちの社会は、小さな声、弱い声も大事にされる社会である。
私たちの民主主義は、数の力で正邪を決めるのではなく、AにもBにも価値があり、それぞれの良さを止揚してCを考え出せという社会である。それでないと、小さな声、弱い声は、ずっと埋もれたままになる。
それでもAかBかの選択を迫る住民投票が主張されるのは、地方自治において間接民主制の仕組みが、市民の思いを吸収するに十分でないからである。だから市民参加や協働の仕組みが重要で、小平市は、その取り組みを一生懸命始めてきている。それらの実践は、地味で根気がいる仕事であるが、今回の住民投票のエネルギーが、こちらに向かえば、きっと、よい仕組みができるようになる。大いに期待したい。
追伸
早速、授業で取り上げてみた。学生たちの反応は、単純に二者択一では決められない=投票には行けない(棄権)というものだった。
直感的には、緑の保全に魅かれるが、そこからさらに、そこに暮らしている人たちに思いを馳せると-例えば、一刻も早く、こどもを病院に連れて行きたいが、道路がないために渋滞に巻き込まれ、救急車の中でハラハラしているお母さんを想像すると、やはり道路整備も必要ではないかというものである。
想像力を働かせ、さまざまな状況にある他者に思いを馳せると、○×で簡単には決められるものではない・・・という意見で、とても健全だと思う。
投票をした35%の人は、どこまで斟酌して(どのように折り合いをつけて)、○をつけたのだろうか、そこが興味深いという話になった。