死を待ってはいけない

2012-09-05 10:18:04 | 魂と心の成長
■(座して死を待つ)を人生そのものにしてはいけない

祖母は去年85歳で亡くなったのですが…その話をするとみんな私がおばあちゃんの死を悲しんでいると考えてくれます。

実は、ちょっと違う。 祖母は…”座して死を待つ以外何もしなかった”人生の見本でした。

先日映画の『運命を分けたザイル』をみました。ロープ一本で宙吊りになるなど、何度もピンチに陥る。
そのときに主人公のジョーは(座して死を待つか)vs(なんでもいいからやるか)の選択の中で(何かやる)を選びます。

ロープに宙吊りになったり、クレバスに落ちて上に登れなかったり…山登りのピンチは性急です。そして確実にやってくる。死がやってくる時間がすぐそこ。

しかし、考えてみれば、人生そのものだって大きなピンチと言えます。死がやってくる時間が遅く、そして
いつやってくるか分からないだけで。必ず死ぬ。

人生においては、死は性急ではないかもしれません。でも確実です。(何もしない)という選択肢を取り、(座して死をまつ)=(余生を過ごす)つもりでも、その余生が結果として35年続いたとしたらどうでしょう?
35年などという時間は待つには長すぎる時間です。

根拠はありませんが、おそらく、死とは待っている人には慈悲深くは訪れないようです。つまりなかなか死なないことが神からのメッセージです。時間を上げるから、何かしら人生を楽しむことをしなさい、という。

ヨガではこのことを分かりやすく言うために、人は今世で、人間に生まれないとなしえなかったことをするために生まれてきた、と言います。

祖母は何年も何年もいつ死ぬかしらと待ちました。弟が先に逝ったときは、ただでさえ精神状態が大変な家族に「私が先に死ぬべきだ」と更なる精神的負担をかけ(←要するに子供)、ただただ死を待ち…そして待ちに待った死は、あまりにもゆっくり訪れたので(彼女は超健康体でした)、彼女はもう待ちくたびれていたのでした。

彼女にとっては(生きること)は長い長い(死を待つプロセス)でした…。

でも考えてみれば、誰にとっても命とは死ぬまでの時間のことです。その死というゴールに向けてどう走るか、
ただ待つか、なんでもいいからやるか?どちらかです。

彼女がそんな人生を送った動機は心配でした。不安です。動物の行動学によると不安を感じやすい動物は長生きなのだそうです…

長い間不安の時間を過ごしたら、どんな生き物にだって、人間にだって、死は不安からの開放以外の何者でもないと思います。なかなか訪れない死はまったく慈悲深いとは言えませんでした。けれども、それがやっと訪れたときには、
本人は安堵の溜息を感じたでしょう…

35年も待っていたのですから。



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