■ ミッションの発見
しばらく考えている命題のひとつに、
ミッションの発見
というものがあります。
ミッション = 使命 = その人にとっての生きる意味 = その人らしい生き方 です。
薄めると、”生きがい”ともいいますが、日本語の”生きがい”は、やたらめったら安売りされて、意味のない言葉になってしまいました。
ヨガの用語では、ダルマといいます。(達磨さんのダルマと一緒です。ダーマ&グレッグのダーマも一緒です)
人が、ミッション(使命・ダルマ)を生きると
・得意なことで社会貢献でき、
・やっていることが楽しいので全く苦労と感じず、
・次から次に実績が積み上がり、
・気がつけば、いつの間にかその分野での権威や大家になっていたり、と、難なく”成功”を手にする
・幸せオーラがその人から発せられる
・そのオーラがさらに人を引きつける
というようなことになります。 なぜか運がいい、という感じですね。私は自分のことをわらしべ長者とずっと思っていました(笑)
ヨガを教えていて思うのは、自分らしく生きていない人が多いという事です。そのために、ストレス社会になっています。
ただこのブログをもしかして読んでくれているかもしれない読者に19歳の少年がいますので、自分らしく生きることを間違ってしまうリスクについて、断っておきます。若いときは間違えやすいです。
≪自分らしく生きることへの良くある誤解≫
・自分らしく生きても嫌なことは起こる。違いは問題が小さく見えること。
・野球選手になる、パティシェになる、みたいな夢(自分以外の別のモノになろうとする)を追いかけることだけが自分らしく生きることではない。
・幸せでいる状態をキープしようとすること自体が重要。”でいる”がポイント。”になる”ではない。
・生活のために働くことを否定してはならない。だたダルマに沿って働いていたら大抵はそれで生活が成り立つようになる。そうでない場合は何かを否定している。
≪親になることについての注意点≫
・自分らしく生きる前(人間的に成熟する前)に、結婚したり子供を産んだりすると男女とも後悔が多い。
・この場合、後悔が失敗の傍証ともいえる。
・特に野心家の男性は成功してから家庭を持つべき。そのために男性の生殖可能期間は長く設定されているに違いない。
・女性は産み育てることをダルマの一部とできるが、母子密着からの脱依存ができないと逆にカルマとなる。
・親になることは単純に成長の機会であり、生きがいではない。孫も同じ。
・親になって親業を否定する人はカルマを増やしてしまう。親になったら親としての自分を十分生きなくてはいけない。それができない場合は親になるべきでない段階で親になってしまったという意味。
※カルマというのはダルマの反対で、繰り返し失敗し学ぶ教訓です。その人の人生課題。
■ ミッションの発見
ミッションは見つけるのが難しいのですが、実は”すでにやっていたり”します。
≪ミッションが良く隠れている場所≫
・自分がやっていて楽しいこと
・次から次に飽きずにやれること
・”祝福”がある分野
・子供の頃得意だったこと
・青春時代を何に費やしたか?
“自分探し”というような言葉が流行ったこともありましたが、自分は外の探すより、中に探す方が良いのです。まぁ当然ですが。
ただ、旅行に出ることは良いと思います。旅行に出てみると、周囲から期待される”役割”を脱ぐことができるからですね。
たとえば、私はお姉ちゃんですが、親や兄弟がいると、それは脱ぐことができませんね。役割で一生を終えないようにしないといけません。役割は仮面です。たとえば、親戚の葬式などで、いい大人が「〇〇坊」などと呼ばれていてびっくりしたことはありませんか?それはその人を狭い枠に押し込むもので、人の成長ということに敬意を欠いています。
たとえば、父や夫である前に一人の人間に立ち返りたかったら、やはり家族から離れて一泊でもいいから旅に出る必要があります。これは、妻や母もです。むしろ女性の方が家庭に拘束されるので、その必要が強いと思います。この場合、友達などと連れ立ってはいけません(笑)。
≪自分発見方法≫
・一人旅に出る
・瞑想する
・人生録を付ける
・今までやってみたくて、やっていないことを行う。 例:ヨガを習う、バンジージャンプをする、ピアノを習う
・今までと180度異なる世界に接する
・子供の頃の感性を復活させる
・マッサージ(アビヤンガ)を受ける
・直観力を磨く(夜はろうそくをつけ瞑想します。そのための音楽を掛けます)
おススメNo1は書くことです。 書くことは自分を強烈に客観視させます。書くことを怠ると、狭い視野の中のヒロインにしかなれません(笑)。ナルシシズムですね。そういう人は若い人の目には”痛い大人”にうつります。若い人の目、とくに子供の目は、ヨガでいうところの第3の目が開いており、真実を見通す目だからです。大人より子供の方が直観力が優れていますよね? 「王様はハダカだ!」と分かるのは子供です(笑)。
■ 何もできないくてもOK
私にはある人のミッションが見える。何をすべきか?も見える。
のに、当人には見えず、ミッションをいつまでたっても遂行する生き方を始めない場合、どうしたらよいでしょうか。
その人は愚痴の塊であり、〇〇だからあれができないこれができないと言い訳ばかりを山積させています。
その言い訳は、私から見たら取るに足らないモノばかりです。
このような状況に陥った人に何をしてやれるのか? は、ある意味、私の人生に再三出てくる人生課題で、この人で3人目です。
私が最近出した結論は何をしてあげることもできない、です。
私自身のコミュニケーションスキルが未熟なためか?と一時はコミュニケーションに工夫もしてみましたが、それも違うようです。
すべての解決策に、出来ない言い訳をすることは明白です。
たとえば、
・一人旅に出る → そんな時間ありません
・人生録をつける → 私にはそんな文才はありません
・今までやってみたくて、やっていないことを行う。→そんなお金はありません
などです。
一人旅なんて、小一時間カフェに出かけて、スケジュール帳を調整するだけでもいいのです。
あるいは登山が好きなら一人で山に出かけるだけでも良いわけです。
言い訳が先に立つとき、その人は拒絶を示しています。 助けを拒絶する人を助けられないのは自明のことです。
これは、実際、同じような落とし穴に陥った友人がいて、助けを拒絶しない人なら助けられたからです。
■ 追い込まれていないのかもしれませんね
溺れる者は藁をもつかむと言います。
ので、助けを数々の”できない言い訳で”拒絶するとき、その人はまだ本当の意味で”困っていない”のかもしれません。
困れば人間何が何でも解決しようとします。
あるいは、自分らしく生きることよりも何らかの他のモノ・コトを優先している場合があります。自分の評判(往々にして”いい人”という評判)や、プライド、世間体、しがらみなどと言ったものです。
過去の成功体験にしがみついている人は、その成功体験がもたらしてくれた他人からの賞賛に依存しています。人は20年も30年も前の成功をほめたたえ続けてくれますが、きつい言い方をすれば「もう終わった人」とみなしているという意味です。それはもう評価されません。
多くの場合、人はもう一度成功しようと言う場合、過去の成功体験を参照します。それは普通ですが、問題は参照の仕方です。同じことをして褒めてもらおうとするのはしがみつくやり方です。やるなら、誰かに認められるためではなく、自分で自分を認めるために行わなくてはいけません。他人の目を気にしている限りうまく行かないのです。
つまり、自分らしく幸福に生きるためには、他人は鬼門なのが分かるでしょうか・・・他人の目を気にしなくなったとき、人はその人らしくなれるのです。
”自分らしい人生を生きる”という問題への解決の情熱が足りないとき…それはどういう事が言えるのか…?
それは、ある意味、生きることそのものをあきらめた…とも言えるのかもしれません。
生きながら屍となる道を選ぶ人がいることに残念さを感じずにはいられません。