昨日はエネルギーが余って活動量が少ないのが、つらく、ダルく、珍しく大変な日でした。やっぱり山に行けばよかった!と思ったものの…
夫:「週末くらい家にいたい」&妻:「週末くらい出かけたい」という課題。
昨日は結局、温泉などいきたかったのですが、候補がなかった。でもちょうどよいことに「明日でかけましょう」というお誘いが入りました☆ 救いですね~(笑)。
だるさは夕食をワインと野菜にして、今日はスッキリしてきました。
■ 町おこし
先日会った友人が、住んでいる町の今後の展望を聞く会などに参加したそうで、そのときのレジュメを持ってきてくれました。内容は…典型的な箱物行政…といっても人口が○百人を切った過疎の町。市町村の統廃合で村役場もなくなっているのです。3町が一つになったその役場は今は古いものを使っているそうなのですが、それを新しく建設するのが目玉だそうです。へぇ~。それよりバスなんとかしてあげたら、と思いましたが。
パンフレットの表に出ている挿絵が…これまた。
アトムのような元気な男の子が、ビルを背景にした高速道路をまたいでいる絵で…こうしたパンフレットを作った人には深い考えがないでしょうが、まさにその深い考えのなさが、問題解決の程遠さを指し示します。
実はそこは山間部の過疎地の村なので、”戦後”の呪縛ともいえる、近代化=幸せの構図から抜け切れていない時代錯誤が透けてみえます。今はもう”戦後”ですらなく”震災後”なのに…。道路が出来たら幸せ、っていう時代感覚はまだ過疎の町では根強い。まるで復活しようとあがく自民党の亡霊のようです…
提示されていた村おこし案は、地元の特産品をジャムなどの加工品にし、雇用を創出、現金収入につなげよう、というものでした。
■ 日本の個人金融資産は世界一
いつも、あまり強調されない議論だなと思うのですが、そもそも、日本の個人金融資産はすごいですよね。国債の話はしても個人資産の話はしない。
幸福や人類の将来、あるいは町の将来を語る場合の、論点は実はもはや経済ではないんですよね。
無論、先ほどの山間部の村には、人もいなければカネもないと思いますが、だから何?そこに住む人が不幸か?不便ではあっても不幸ではないでしょう。
日本の個人金融資産は既に世界1です。一人当たり1100万円以上の金融資産がある。金融資産全額では人口の多いアメリカに負けますが、一人アタリではアメリカ人なんかよりうんと多いのです。
お金が欲しい、は、もう達成しちゃったんですよ。お金があれば幸せになれるはずだったのに。じゃ何がないんでしょう(笑)?
お金はあるけど、幸せそのものがない。
だからお金がある人をうらやんでも無意味です。金はあるけれどもまったく幸せそうでない人々をうらやましいわけがないわけだし…
その小さな山間の町は友人の冷静な観察によるところでは、今後衰退の一途を辿るであろうと。その町に留まる魅力はもとより、そもそもそこに住む理由がないと。たしかに…。
そうした山間の村はむかし世を追われて移り住んだ人が多いことで独自の文化をはぐくんだ歴史があったりしますが、その事実が当時から”追われでもしなきゃすまない不便な土地”であることを意味します。不便デフォルト(笑)不便を否定したら自分の村のアイデンティティそのものを否定することになる。
日本中で他にも住むべき良い土地があるなか、わざわざ支所がさえ消えそうな行政サービスゼロの町にすまなくても他にいくらでも良い候補がありそうです…
そんな風にして、歴史のある山間の小さな町が、今消えてなくならん、とする一方で…フクシマに住み続ける人もいる…
一体、何と何が天秤に掛けられているのか?いや”天秤”ではなくて、”選択と集中”かもしれませんね? 切り捨てられる町と投資される町。
■ 傲慢
先日、ネットイジメに合い、「高山植物の保護活動をするなんてあなたは傲慢です」と言われ、面くらいました。
傲慢とは色々な定義があるものだなぁ…と!
私には内容を一切知らず傲慢だと決定付ける”自信”こそが傲慢と思えましたが…
それは単なる、相手を叩きのめしたいと言う欲求の表現、だったのです。
友人が住んでいる、その過疎の山村では、野生動物が人間の気配の消えた村に増え、村はだんだんと人間の領域ではなく、動物達の領域にもどりつつあるそうです。そういう場所に住むと、野生動物との付き合い方をよく知ることは死活問題ですね。海外に移住して、英語が話せないみたいなもんです。
友人はちょっと猟に興味があるそうでした。女ハンター誕生か(笑)というのも、彼女も含め私もですが、若い世代はお金がない…食べることが循環型にならないかな~というのはみんなの憧れです。
ただ友人はその村が人口を取り戻すことはないだろうと思うし、それも自然の流れではないか?ということでした。
基本的に足りないのは人口ではなくて労働力なので、都会の人にボランティア活動をしてもらうので充分なのではないでしょうかね。
こういうとき思い出すのは、「人間には自然が必要だが、自然には人間は必要でない」ということ…
高速道路も街も人がメンテナンスを辞めれば、自然の力が圧倒的な、水の豊かな温帯にある日本では10年もすればすっかりツタで覆われてジャングルみたいになります。自然復活。
自然の復活。それは人間が期待する、液晶アクオスが似合う知床みたいな、いうなれば美しい”良い子タイプ”の自然とは違うかもしれませんが(^^;)
■ 多様性=善?
自然が豊かになるというとき、その豊かさを計る指標そのものも実は人間の色眼鏡みたいです。
動植物の多様性(種の数が多い)ことこそが、豊かさだ、という議論があるので、一応、各文献をあたってみましたが、専門家の間では 多様性=良い とは結論付けられていないそうです。
無論、病気や災害などの撹乱には、喰う、喰われるのチェーンが長いほうがその生態系の輪としての強さは傾向としてアップするそうです。
ただそれは、生態系にはキーとなる重要な動植物がいて、一つが欠けたことが
全体に影響してしまう種もいれば、一種類が全滅しても他の動植物が代替機能を果たせる場合もあるのだとか。代替の利かない種をキーストーン種というのだそうです。そのキーストーン種が残存する確率が高いから。
■ 人としてあるべき姿の共通理解の喪失
自然が危ない一方で、人間そのものが壊れている現代…、人間ではなく自然を心配していれる人は実は幸せかもしれません。
人類という生態系は、今キーストーン種を失って、崩落しつつあるようにも見えます。
誰かが代替しようとしても代替がない、ある機能を担った人々の喪失…昔は道徳とか倫理とか言われ、人の生きるべき道やあるべき姿を指し示していた人や教え、人としていかにあるべきか?という伝統…その断絶。喪失。
人としてやってよいこと悪いことの指標…例えば公衆の面前で個人攻撃をしてはいけないとか、基本的なこと…が欠如した。
ニュースなんか見ていると14歳の少女にカネを握らせ裸にしておいて、「合意の上」なんだと…。溜息しか出ませんね。それは相手の無垢さに漬け込む、という行為のことです。そういうタイプの考え方は、私が見たところ日本のほうがアメリカより多い。でも日本人はそういう考え方はアメリカからきたのだと思っているのが不思議。
むしろ、日本人は長いものには巻かれるべきという自分自身に発しない道徳観なので西洋人の人がこれをやっては罪の意識に苦悩する、というシーンでも罪の意識は感じないようです。自分の内なる神には嘘をつけませんが、内なる神より周囲の圧力(ピアプレッシャー優位)です。そうするとその場はいいかもですが、ながながと苦しむことになると思いますがいいのでしょうか…そんな苦しい人生を送ることになっても…この「合意の上」タイプの人は。
そうした人が増えた、もともとの根源を辿ると…神職者の衰退であり、人としてどうあるべきかという共通の理解の欠如であり、それは、大元を正せば、自然を畏敬する、という起源ではなかったか?と思ったりします。
”自然”が歯ごたえ悪いならば、人間はNo1ではない、という知ではなかったか? 自分がすべてを知りうるはずはないという知ではなかったか?と思うのです。
つまり、それは”傲慢”の対極にある思想なのではなかったか?
まぁいわゆる世俗に魂を売ったようなラブホ併設のお寺みたいなものはいくらでも衰退してほしいんですけれども(^^;)
■ 意識の転換
(自分は知っていて、相手は知らないこと) → (知らない相手が悪い)&(相手は知るべきだ)
という意識は、
(自分は知っていて、相手は知らないこと)→ (自分が知っているのだからOK)&(相互補完)
と転換すると、新しい時代にマッチするようです。
誰しも自分と相似形の人は愛しい。そこにいることはラクだ。
けれども、実は人間社会は全体としてみたときには、もっとも異なる人ほど必要な相手だったりもする。
補完という発想。全体として一つがなりたついう発想。部分(個人)は全体から切り離すことはできないという発想。
補完。自分の成り立ちの一部である、”自分は含まれている”という意識。
■ 無知
人間は神ではない。ゆえにすべてを知り尽くすことが出来る人間などいない。
ゆえに自分自身もある分野では無知を免れない。ゆえに、だれかの無知を責めることは、自分の無知を棚にあげ、自分と無知なる人々とは違う、異なる、といっていることになる。自分は含まれていない。
世間に自分は含まれていないという意識が間違っていたことは、血と戦争の時代の20世紀の歴史が証明し…それより何より震災が証明しましたね…ごく最近。
原発推進論は自分はその因果応報に含まれていないと思っていないと出来ない。
しかし、実は死の灰は等しく降る。誰もがセシウムの洗礼を受ける。
自分はみんな(世間)とは違う人種だ、という選民意識、”セパレーション”意識が大いに誤りであることを万人が理解した事件が震災でした。
しかし、その自分は違うという”分離”意識は、かわいそうにも…世間に”認められたい”のに”認められなかった”という過去の心の傷、苦痛の叫びから来ているのです…本当は。
世界にはやっぱり愛が足りない。
満たされることが必要な人がここにも…というわけなのです。ただ自分を愛で満たしてくれるべき相手というのがおり、いくら相手違いの人から満たされてもその人は永遠に満たされない。
自分を愛で満たしてくれるべき最初の1人は自分です。
このことは名声があっても満たされていない人が多いことが逆説的に示していますよね。
夫:「週末くらい家にいたい」&妻:「週末くらい出かけたい」という課題。
昨日は結局、温泉などいきたかったのですが、候補がなかった。でもちょうどよいことに「明日でかけましょう」というお誘いが入りました☆ 救いですね~(笑)。
だるさは夕食をワインと野菜にして、今日はスッキリしてきました。
■ 町おこし
先日会った友人が、住んでいる町の今後の展望を聞く会などに参加したそうで、そのときのレジュメを持ってきてくれました。内容は…典型的な箱物行政…といっても人口が○百人を切った過疎の町。市町村の統廃合で村役場もなくなっているのです。3町が一つになったその役場は今は古いものを使っているそうなのですが、それを新しく建設するのが目玉だそうです。へぇ~。それよりバスなんとかしてあげたら、と思いましたが。
パンフレットの表に出ている挿絵が…これまた。
アトムのような元気な男の子が、ビルを背景にした高速道路をまたいでいる絵で…こうしたパンフレットを作った人には深い考えがないでしょうが、まさにその深い考えのなさが、問題解決の程遠さを指し示します。
実はそこは山間部の過疎地の村なので、”戦後”の呪縛ともいえる、近代化=幸せの構図から抜け切れていない時代錯誤が透けてみえます。今はもう”戦後”ですらなく”震災後”なのに…。道路が出来たら幸せ、っていう時代感覚はまだ過疎の町では根強い。まるで復活しようとあがく自民党の亡霊のようです…
提示されていた村おこし案は、地元の特産品をジャムなどの加工品にし、雇用を創出、現金収入につなげよう、というものでした。
■ 日本の個人金融資産は世界一
いつも、あまり強調されない議論だなと思うのですが、そもそも、日本の個人金融資産はすごいですよね。国債の話はしても個人資産の話はしない。
幸福や人類の将来、あるいは町の将来を語る場合の、論点は実はもはや経済ではないんですよね。
無論、先ほどの山間部の村には、人もいなければカネもないと思いますが、だから何?そこに住む人が不幸か?不便ではあっても不幸ではないでしょう。
日本の個人金融資産は既に世界1です。一人当たり1100万円以上の金融資産がある。金融資産全額では人口の多いアメリカに負けますが、一人アタリではアメリカ人なんかよりうんと多いのです。
お金が欲しい、は、もう達成しちゃったんですよ。お金があれば幸せになれるはずだったのに。じゃ何がないんでしょう(笑)?
お金はあるけど、幸せそのものがない。
だからお金がある人をうらやんでも無意味です。金はあるけれどもまったく幸せそうでない人々をうらやましいわけがないわけだし…
その小さな山間の町は友人の冷静な観察によるところでは、今後衰退の一途を辿るであろうと。その町に留まる魅力はもとより、そもそもそこに住む理由がないと。たしかに…。
そうした山間の村はむかし世を追われて移り住んだ人が多いことで独自の文化をはぐくんだ歴史があったりしますが、その事実が当時から”追われでもしなきゃすまない不便な土地”であることを意味します。不便デフォルト(笑)不便を否定したら自分の村のアイデンティティそのものを否定することになる。
日本中で他にも住むべき良い土地があるなか、わざわざ支所がさえ消えそうな行政サービスゼロの町にすまなくても他にいくらでも良い候補がありそうです…
そんな風にして、歴史のある山間の小さな町が、今消えてなくならん、とする一方で…フクシマに住み続ける人もいる…
一体、何と何が天秤に掛けられているのか?いや”天秤”ではなくて、”選択と集中”かもしれませんね? 切り捨てられる町と投資される町。
■ 傲慢
先日、ネットイジメに合い、「高山植物の保護活動をするなんてあなたは傲慢です」と言われ、面くらいました。
傲慢とは色々な定義があるものだなぁ…と!
私には内容を一切知らず傲慢だと決定付ける”自信”こそが傲慢と思えましたが…
それは単なる、相手を叩きのめしたいと言う欲求の表現、だったのです。
友人が住んでいる、その過疎の山村では、野生動物が人間の気配の消えた村に増え、村はだんだんと人間の領域ではなく、動物達の領域にもどりつつあるそうです。そういう場所に住むと、野生動物との付き合い方をよく知ることは死活問題ですね。海外に移住して、英語が話せないみたいなもんです。
友人はちょっと猟に興味があるそうでした。女ハンター誕生か(笑)というのも、彼女も含め私もですが、若い世代はお金がない…食べることが循環型にならないかな~というのはみんなの憧れです。
ただ友人はその村が人口を取り戻すことはないだろうと思うし、それも自然の流れではないか?ということでした。
基本的に足りないのは人口ではなくて労働力なので、都会の人にボランティア活動をしてもらうので充分なのではないでしょうかね。
こういうとき思い出すのは、「人間には自然が必要だが、自然には人間は必要でない」ということ…
高速道路も街も人がメンテナンスを辞めれば、自然の力が圧倒的な、水の豊かな温帯にある日本では10年もすればすっかりツタで覆われてジャングルみたいになります。自然復活。
自然の復活。それは人間が期待する、液晶アクオスが似合う知床みたいな、いうなれば美しい”良い子タイプ”の自然とは違うかもしれませんが(^^;)
■ 多様性=善?
自然が豊かになるというとき、その豊かさを計る指標そのものも実は人間の色眼鏡みたいです。
動植物の多様性(種の数が多い)ことこそが、豊かさだ、という議論があるので、一応、各文献をあたってみましたが、専門家の間では 多様性=良い とは結論付けられていないそうです。
無論、病気や災害などの撹乱には、喰う、喰われるのチェーンが長いほうがその生態系の輪としての強さは傾向としてアップするそうです。
ただそれは、生態系にはキーとなる重要な動植物がいて、一つが欠けたことが
全体に影響してしまう種もいれば、一種類が全滅しても他の動植物が代替機能を果たせる場合もあるのだとか。代替の利かない種をキーストーン種というのだそうです。そのキーストーン種が残存する確率が高いから。
■ 人としてあるべき姿の共通理解の喪失
自然が危ない一方で、人間そのものが壊れている現代…、人間ではなく自然を心配していれる人は実は幸せかもしれません。
人類という生態系は、今キーストーン種を失って、崩落しつつあるようにも見えます。
誰かが代替しようとしても代替がない、ある機能を担った人々の喪失…昔は道徳とか倫理とか言われ、人の生きるべき道やあるべき姿を指し示していた人や教え、人としていかにあるべきか?という伝統…その断絶。喪失。
人としてやってよいこと悪いことの指標…例えば公衆の面前で個人攻撃をしてはいけないとか、基本的なこと…が欠如した。
ニュースなんか見ていると14歳の少女にカネを握らせ裸にしておいて、「合意の上」なんだと…。溜息しか出ませんね。それは相手の無垢さに漬け込む、という行為のことです。そういうタイプの考え方は、私が見たところ日本のほうがアメリカより多い。でも日本人はそういう考え方はアメリカからきたのだと思っているのが不思議。
むしろ、日本人は長いものには巻かれるべきという自分自身に発しない道徳観なので西洋人の人がこれをやっては罪の意識に苦悩する、というシーンでも罪の意識は感じないようです。自分の内なる神には嘘をつけませんが、内なる神より周囲の圧力(ピアプレッシャー優位)です。そうするとその場はいいかもですが、ながながと苦しむことになると思いますがいいのでしょうか…そんな苦しい人生を送ることになっても…この「合意の上」タイプの人は。
そうした人が増えた、もともとの根源を辿ると…神職者の衰退であり、人としてどうあるべきかという共通の理解の欠如であり、それは、大元を正せば、自然を畏敬する、という起源ではなかったか?と思ったりします。
”自然”が歯ごたえ悪いならば、人間はNo1ではない、という知ではなかったか? 自分がすべてを知りうるはずはないという知ではなかったか?と思うのです。
つまり、それは”傲慢”の対極にある思想なのではなかったか?
まぁいわゆる世俗に魂を売ったようなラブホ併設のお寺みたいなものはいくらでも衰退してほしいんですけれども(^^;)
■ 意識の転換
(自分は知っていて、相手は知らないこと) → (知らない相手が悪い)&(相手は知るべきだ)
という意識は、
(自分は知っていて、相手は知らないこと)→ (自分が知っているのだからOK)&(相互補完)
と転換すると、新しい時代にマッチするようです。
誰しも自分と相似形の人は愛しい。そこにいることはラクだ。
けれども、実は人間社会は全体としてみたときには、もっとも異なる人ほど必要な相手だったりもする。
補完という発想。全体として一つがなりたついう発想。部分(個人)は全体から切り離すことはできないという発想。
補完。自分の成り立ちの一部である、”自分は含まれている”という意識。
■ 無知
人間は神ではない。ゆえにすべてを知り尽くすことが出来る人間などいない。
ゆえに自分自身もある分野では無知を免れない。ゆえに、だれかの無知を責めることは、自分の無知を棚にあげ、自分と無知なる人々とは違う、異なる、といっていることになる。自分は含まれていない。
世間に自分は含まれていないという意識が間違っていたことは、血と戦争の時代の20世紀の歴史が証明し…それより何より震災が証明しましたね…ごく最近。
原発推進論は自分はその因果応報に含まれていないと思っていないと出来ない。
しかし、実は死の灰は等しく降る。誰もがセシウムの洗礼を受ける。
自分はみんな(世間)とは違う人種だ、という選民意識、”セパレーション”意識が大いに誤りであることを万人が理解した事件が震災でした。
しかし、その自分は違うという”分離”意識は、かわいそうにも…世間に”認められたい”のに”認められなかった”という過去の心の傷、苦痛の叫びから来ているのです…本当は。
世界にはやっぱり愛が足りない。
満たされることが必要な人がここにも…というわけなのです。ただ自分を愛で満たしてくれるべき相手というのがおり、いくら相手違いの人から満たされてもその人は永遠に満たされない。
自分を愛で満たしてくれるべき最初の1人は自分です。
このことは名声があっても満たされていない人が多いことが逆説的に示していますよね。