母子密着サバイバーの女の子の話(笑)

2012-09-10 15:33:43 | 幸せのコツ
友人の12歳の男の子の話を聞いて、なんだか自分の子供の頃を振り返っています。

この友人はふとしたことで知りあい、久しぶりにお食事をして、とってもドキドキしました…覚えている以上に女性らしくて美人で。

ちょっと前にその友人の子が家出して何百キロも離れた元いた土地に戻っていた、という事件があり、よくやるなぁと感心していました。イマドキたくましい!

■ 可愛くない子

私はと言えば、子供の頃はもうホンッと付き合いづらい子でした。たぶん、人の目には。可愛くない。

ついでに可愛くなくて結構、と公言している子供でした。ああ~可愛くない(笑)。

そもそも、おしゃべり自体をそんなにしない子でした。あと仏頂面? 「ばっかみたい」口癖。

「8時だよ全員集合」→「バチバチとぶち合って何が楽しいの?ばっかみたい」 
「動物園」→「動物牢屋のどこがいいの?」
「遊園地」→ 「幼稚でやってらんない」
「海」→ 車に酔って吐きそう…一日ご機嫌斜め。アトピーが染みて痛いっちゅーの!

子供が喜ぶとされる活動一切、嫌っていました(笑)。これが小学生までずっと。

いやね、母が「離婚したら子供に悪影響がでるじゃないか」とか言って悩むんですよ。それ、「ばっかみたい」とすでに7、8歳で思っていました(笑)いやホント可愛くないですね。

というか、父は幼稚園までしか知りませんが、父のおかげで家庭生活がよかったことなんて一回もなかったんですよね。酔っ払っているか、朝は寝込んでいて、いるのかいないのかもわからないか。皿とか投げあう夫婦喧嘩してましたから
小さい弟と妹が「辞めて~」と泣き叫ぶ、親は皿を投げている。
仕方ないから私が泣き叫ぶ兄弟2人を抱っこして慰める担当です…

離婚して、そういう感情的にめんどくさいドタバタがなくなった時は正直、ホッとしました。お父さんがどんな人かなんてどうでも良かったんです。すでに父がいることにメリットは見出せていませんでしたから。酒飲んで暴れれている人に子供がなつくわけもないし。

名前が変わったんですが、そうすると名前が変わったことを気にしているんじゃないかということを気にする人がいるんですよ。ばっかみたい。変わったんだから、変わったの。だから、何か?
先日まで○○でしたけど、今日から△△ですけれど、何か? 本人はそんな感じでした。

あとね、「おねえちゃん役」もめんどくさかった。この家にいる限り一生おねえちゃんなんだわ!と11、12歳頃には既に諦めていました。お姉ちゃんは、依存される側。する側ではなく。だから早く大人になろうとしていましたね。中学で留学という手がある、と留学帰りの先輩を見て気がつき、留学して早くここから逃げてやろう!という魂胆でした(笑)。

幼子の頃、弟と妹は母子分離不安が強く、小学校に上がるようになっても母と離れるのには大変でした。幼稚園の頃は、文字通り、一瞬でも母の姿が見えないと泣き叫ぶ有様だったので、基本的に私が抱っこしてその合間に母親がドアから出て行って用事を済ませるという連携プレー成立。弟と妹はずいぶん大きくなるまで、おねしょが直らなかったのです。二人とも3年生くらいまでおねしょしていました。

私だけが唯一、手の掛からない子として育ち… まぁ役に立つ、という意味の便利な大人子供でした。

おまけに祖母の孫への愛着にもあきれていました。私が「初孫」だったので夏休みなど別れ際、目に涙を溜めて泣く。おいおい泣くんです。
そんなに悲しいなら一緒に住んだらいいのに…。なんだか私は悪いことをしているような、そんな気にさせられました。

でも、実は、祖母が見ていたのはデフォルメされた「孫」で、本当の「私」ではなかったのです。
愛玩動物の「ペット」が好きなだけで、その「犬」を好きなのではないご主人様と同じ。犬が好きでもない服を着せてしまいます。
彼女の「美しさ」が好きなだけで、「彼女そのもの」が好きなのではない恋人と同じ。相手がオナラすると幻滅します。
それと同じで祖母の私への愛も、孫として初めてみた赤ん坊に恋に落ちてしまっただけのようでした。祖母は母親としては母性がイマイチだったみたいなので、孫で目覚めたのかもしれません。

私は愛されたのですが、本当には愛されたのかなぁ・・・イマイチ釈然としません。

なぜなら祖母も母も、私の中身にはあまりに興味がないのでした…それが分かるのは、祖母も母も本当に勘違いした贈り物ばかりくれたからです。 

母が高額な身の回り品を買ってくれたのは以前書きましたが、中学に入学したときの学生カバン6万円、足元は6年生からリーガルの革のローファー… 当時赤いタータンチェックのスカートと赤のカーディガンを着て、町を歩くとずいぶんナンパされました。6年生…いらんよな~大人びた小道具。むしろ危険。いつだったか雨だったので傘を持ってバス停で母を待っていたら、危うく車にひきづりこまれるところでした。

その赤いカーディガンはアルパカで長持ちして、つい4,5年前までありましたが、品がいいのはいいのですが、しかしね~年齢相応というものがありますね。その赤いカーディガンはさすがに、30過ぎで着ているといまさらアイビールックもないわけで、カマトトぶった感じだし、着ないので捨てました。

一方、14歳の頃、母がうっかりシルクのざっくりセーターを洗うのに失敗したため、私に回ってきたのですがそれは未だに着ています。もらったものだけど、母の要らないもの、お古です。私は着るものの価格は気にしないタチらしいのです。
今でもアメリカの古着屋で買った3ドルのカーディガンが捨てられないのです。
なぜなら…温かくないし、穴が開いてるけど、似合っているから。

小学校を卒業する頃には、母には私が必要だったけれど、私には母はいりませんでした。

というわけで、私の中学・高校時代は、家族からいかに距離を置くか?に血道をあげた時代でした(笑)

中学校では常に学年トップの、ものすごい大天才の親友が出来たので(男の子)、その子のさらに親友の家が建築家で勝手にPC9801(当時最新機種)を使わせてくれる肝っ玉父さんだったので、部活がなければ入り浸り、家にはギリギリ帰る。
朝は夏休みでも友人と早くの時間にサッカーしていました。雨の日もサッカー。いつか、それでずいぶん仲間が増えたので、パーティをしたりもしました。親友のお母さんがあれやこれやと世話してくれました。おばさんは大学に出てしまった娘がいなくて寂しがっていたので、ちょうどよかったのです。
ずぶぬれになった後にはお姉さんの子供の頃の服とか着せてくれました(笑)

■ 圧力

中学時代の思い出で、最悪のものは、生理日のプール事件です。私の中学では、女子はなぜか生理の日もプールに入らねばならなかったのです。おかしいでしょう?

今の社会は女性の母性、生理を虐げています。サボり癖がつくから、なんて理由で生理のカラダを大切にさせない。会社だって「生理で休みます」なんてのは通用しない。

でも、生理ってホント大変なんですよ。私は生理痛は軽いほうでしたが、ひどい人はヒドイし、それより何より労ってほしいですよ。若いときはまだ手馴れていないので、急に生理になったり、量がドバッと出たりして、昼でも夜用とかですし、心配で体操なんてやってられない。

ホント、女の子本人だって、ビビってるんですよ。そんなの誰だって想像できるでしょ。痛くなくても自分からドバドバ血が出てるんですよ、なによりビックリでしょう。それも痛くないってのがむしろ問題で、気がつかないんですよ、生理になったこと事態に。中身は子供のまんまですから。体なんて健康そのものです、それなのに血が出たらビックリ!ですよ。

で、中学時代に話を戻すと、生理中にプールに入るのは、絶対変でした。冷やしてはならない女性のカラダを冷やす。 というのも、その先生の持論では生理というのは、水の圧力で押し込められ、その圧力が開放されない限りでないと。なのでずっと水に浸かっていれば出ないでしょ、という理論。
そんなの嘘で足からツターと血の筋が流れてしまう子もいました。でも、しかたない。先生の言いつけ。

何より、自然の摂理に反したことを先生の言いつけでやらされるのがいやでした。

で、私は生徒会をしたり学級では顧問などしたり、キャプテンしたりと、色々で、実は3年生の頃には他の中学校の生徒会の人たちと横の連携があり、その友達を頼ってちょっと色々聞いてみたら、やっているのはウチの中学だけだったのです、そんな野蛮なこと。

で、中学3年間、後輩に私が何を残していけるかな~と思ってやったのがこれ。生理日のプール廃止運動。3年生の2学期に。
辞めたほうがいいという意見の署名と、学校医の意見書、他校の実態のレポートつき。

結果は散々でした…なにしろ、「いますぐ活動をやめないと内申書はどうなっても知らんぞ」という圧力が、それも信頼していた担任の先生から告げられました。まぁ!なんて素晴らしい教育。

まぁそうこういいながらも、その女の先生は翌年から「生理日のプール」は辞めたそうでしたが。

■ 大人が勘違いするのは宿命なのかも

私の母は、子供の私自身がどういう人間なのか?には、余り興味がないようでした。

母に私が必要なのであって、私に母が必要だったのではなかったのです。それは小学校卒業前に明らかでした。

私は育ててくれたお礼として中学までは母のよりどころ役を甘んじて受け、高校では自立しました。高校時代は母はマヌカン(懐かしい言葉)として成功し、贅沢三昧からパチンコへと大転換の激動の時代を生きていたようでした(正直家には夜中の2時ごろ帰って朝5時に出る生活をしていたので、良く知らない…汗)

何しろ高校のころはとんでもなく私の将来がこのときに掛かっている正念場でしたし、正直、人のことなど構っている暇はなかったですね。自分自身の首をつなぐのに精一杯で。大学に入った頃には、その勢いの名残で取り付く縞がないほど、殺気立っていたそうです。大学の友人によると。あとの20年は人格がマイルド化するプロセスです(笑) いや~私もずいぶん丸くなったなぁ!

友達のように仲の良い親子、それが母の心のよりどころでした。母は何しろ、一人っ子で寂しかったそうなのです。これは小学校のときに直接母に聞きました。孤独か。

その孤独を癒す手段としての子供なのでした。だから、個人、人間としての私に母が興味がないのは当然でもあるし、確認も取れました。それはほしくないものをくれることから分かりました。

一番最大の”ああ勘違い”は、フリフリフリルのネグリジェ… 25、26歳のころ…一体何の勘違いだ…(汗)???

これは弟の葬式から帰ってきた直後に贈られてきました…超意味不明…(汗)速攻でゴミ箱行きでした。贈られてうれしかったもの、今頭で検索しましたけど何もありません…

一方中学の頃、親友が贈ってくれたのは、『アルジャーノンに花束を』でした。やっぱり友人の勝ち。 

でもねぇ問題は親というのは子供のことを分かっていると思っているってことですよ。 子供の頃から親は私のことを分かっているつもりだけど、何にも知らないよな~って思っていました。

高校のときは、先生との三者面談で、「この子が心を開かないのはまだ甘えたいからなんです」って…ガックシ。 どの面下げて…と思っていました…何しろ、母は私が15歳の頃には、育児放棄し、具体的には学校で食べるためのランチ代の供給をやめ、授業料だって払わない時がありました。私は勝手に母の財布を見て、授業料があれば抜き、なければ自分でなんとかするしかないのです。ランチはジョア70円でしのいだり、バイトしていたパン屋さんのパンでした。

だからバイトしていましたけど、それは2年後に弟が高校に進学し、弟も同じことをせざるを得ないのでした…そんな環境で、「甘えたい」ねぇ。ずっこけてすぎて、あきれるしかないのでした。

そういうセリフは大人の体面をかろうじてたもつためにあるのでしょう…

そういえば我が家が下着泥棒にあったときに、下着を盗まれ、それを私は警察官に自分のではないと言ったのですが…当然でしょう、こちらはスィートシックスティーンですよ、警察官に目の前でこれ、君のパンツ?と言われて、そうです、という女の子います? 
母はそのせいでそのパンツが母の所有物だということにされて、恥ずかしかったのだそうで後で散々責められました。 うーん、どっちが子供よ?

まぁその後の展開を見ても、私は1人で大人になりましたから…
やっぱりいちかバチかの分かれ目に立たされた子供の生命力に、モノで自分を慰めているような暇な大人の生命力では、叶わないのではないかと思ったりします…



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