ずっと前から書いておかなければならないと思っていたこと…。
人間は被創造物である、ということについて。
■ 人間は被創造物です
この世界は誰が作ったのでしょう? とりあえず誰とは分かりませんが、人間が作ったのではないことだけは確かですね。
ダーウィンの『種の起源』を持ち出さずとも、人間の起源より、生命の起源は古い。地球の起源はもっと古い。
誰かわからないにしても、あるいはまったくの偶然かもしれないにしても、生命体ができ、それが進化を経て人間になった。
だから、人間が「作られたもの」であることについては疑いがない。人間は自らを作ったわけではない。
ゆえに、人間はつまり人類は被創造物ですよね。
■ 用途と使命の話
ここにペンがあります。 ペンというものは普通は字を書くために作られたものです(用途①)。
けれども、ペンは棒状ですから、つっかえ棒にして何かを支えるのに使うこともできます(用途②)。
「あ、頭痒いな」と思って頭を掻くのにも使えます(用途③)。
では、ペンそのものになってみましょう。
ペンとしては、用途①で使われていても、用途②で使われていても、用途③で使われていても、「自分は役に立っている」という実感を得ることができます。
しかし、作り手の目でみるとどうでしょうか。棒という用途には、棒にはそれなりの強度を与え、”書ける”という用途は与えなかったことでしょう。つっかえ棒には書ける必要がないからです。
では、「掻く」という用途ではどうでしょう?頭を掻く用途には、引っかきやすいように孫の手のようにカーブしたつめを与えたことでしょう。 たしかにペンで頭を掻く事もできますが…それは代用というやつです。
ペンが「書く」という”本来の用途”に使われたとき、ペンは本来ペンとして作られた意図を全うしています。
このとき、ペンにとっては「書く」ということがペン本来のあるべき姿=用途=使命であると言えます。
これはヨガの(ギーターの)教えです。
■ 使命を知ることは出来ない
使命をもって生きると人は強くなれます。誰しもマザーテレサやキング牧師まで行かなくても、身近な人でも尊敬する人を知っているでしょう。そしてその人の強さのうちに使命感の存在を発見したことでしょう。
人生が困難さの度合いを増すに従い、私もそうした強さを得たいと思い、”使命”についてしばらく研究していました。 そして、結論。
人は使命を知ることはできない。
なぜなら、人間は被創造物であって、何のために作られたか知ることができないから。
です。
人は、自分の使命を自分のうちだけで知ることは不可能です。もっといえば、使命を知るためには多くの試行錯誤が必要です。
多くの人は、棒として役立っている、あるいは、頭を掻くものとして役立っているペンです。
自分が「書ける」ものだとは知らない。そういうペンです。そのままで人生を終わる人もいるでしょう。
(無論だからと言って役に立たなかった人生ということではありません。ただ活かし切らなかった人生ではあるでしょう)
■ 劣位の才能が教えるもの
ペンにとって、「自分は「書ける」という用途がこなせるのだ」ということは、どうやって知ることができるか?
これは推理する以外の方法はありません。 そして、その推理には絶対的に他者が必要です。
棒として役に立っている本当の棒との比較では、何かのつっかえ棒になるという用途においては、ペンは自分が強度において劣る、ということを知るでしょう…。
あるいは、頭掻きという用途に最高に役立つ棒との比較においては、ペンは自分が劣位である、ということを
知ることで、「頭を掻く」という用途が”自分の最高の活かし方ではない”と知るでしょう。
自分が何かで劣るとき、人はとても悔しく思うものです。それは、間違った認知とはいえないまでも、有益な認知ではないですよね? 劣るということから知るべきことは、自分は何が勝るのか?です。
この点で 判断できることは、次の2点です。
・他人との比較というものは優劣や勝ち負けの判定ではなく、自分の特性を知るという点においてのみ意味がある。
・自分を”活かす”には一体どうしたら良いのか?という視点が、自分の特質(使命)を明らかにする
ペンにとってどうやったら「書ける」という用途を発見することができるでしょうか?
それには誰かがキャップをあけ、柔らかなフェルト部分を紙に押し付ける、という行動をしなくてはなりません。
その(”キャップをとってフェルト先端を紙に押し付ける”という行為)=(才能の発見という事件)です。
そう、才能は誰かによって発見されなければならないのです。対外的に起こるものです。
そしてこの(才能の発見という事件)は、ペンにとっては、異次元の体験のはずです。 なぜなら、自分にしかできないことをやるということはおそらく他の人がやっていない行為をやるということだからです。
そして、実際に「書く」という行為をしたときには違和感や驚きさえ感じたかもしれません。
なぜなら、今までペンは自分の仕事を「つっかえ棒」「頭を掻く」という仕事だと思っていたのですから。
ただ、ペンはこれこそが自分にしかできない仕事だと、これまでの「つっかえ棒」あるいは「頭を掻く」という仕事との比較から自己認識できるはずです。
なぜなら、「自分にしかできない」仕事だからです。同僚の「つっかえ棒」にも「頭掻き」にもできない自分だけができる仕事(=用途)が「書く」ということだからです。それは別に優位性を自慢するのでもなんでもなく、誰がみても明らかですよね?
そして優位がゆえに非常に強い充実感と充足感を得て、他に換えられないために、社会的には成功を得るはずです。 ただ多くの書籍では、そうした充実感や充足感から天職や使命を知るように薦めていますが、その前のプロセスについては述べていません。
しかし、冷静に考えると、このような推理によってしか、人は自分の使命(自分が何のためにこの世に生まれてきたのか?)を知ることはできません。
使命の発見に必要なのは
・まずは色々な面で社会に役立ってみること
・他者との比較で自分にしかない強みや特性を良く知ること
・才能が生かさせるきっかけになる事件
・強い充足感や充実感による裏づけ
です。才能という名の撒かれた種には、肥えた土と日光を求めての発芽競争、そして雨が必要と言うことです。それがあって花が咲き、実が実る。
自分の使命は何か? この拙い文章が、発見の一助になれば幸甚です。
人間は被創造物である、ということについて。
■ 人間は被創造物です
この世界は誰が作ったのでしょう? とりあえず誰とは分かりませんが、人間が作ったのではないことだけは確かですね。
ダーウィンの『種の起源』を持ち出さずとも、人間の起源より、生命の起源は古い。地球の起源はもっと古い。
誰かわからないにしても、あるいはまったくの偶然かもしれないにしても、生命体ができ、それが進化を経て人間になった。
だから、人間が「作られたもの」であることについては疑いがない。人間は自らを作ったわけではない。
ゆえに、人間はつまり人類は被創造物ですよね。
■ 用途と使命の話
ここにペンがあります。 ペンというものは普通は字を書くために作られたものです(用途①)。
けれども、ペンは棒状ですから、つっかえ棒にして何かを支えるのに使うこともできます(用途②)。
「あ、頭痒いな」と思って頭を掻くのにも使えます(用途③)。
では、ペンそのものになってみましょう。
ペンとしては、用途①で使われていても、用途②で使われていても、用途③で使われていても、「自分は役に立っている」という実感を得ることができます。
しかし、作り手の目でみるとどうでしょうか。棒という用途には、棒にはそれなりの強度を与え、”書ける”という用途は与えなかったことでしょう。つっかえ棒には書ける必要がないからです。
では、「掻く」という用途ではどうでしょう?頭を掻く用途には、引っかきやすいように孫の手のようにカーブしたつめを与えたことでしょう。 たしかにペンで頭を掻く事もできますが…それは代用というやつです。
ペンが「書く」という”本来の用途”に使われたとき、ペンは本来ペンとして作られた意図を全うしています。
このとき、ペンにとっては「書く」ということがペン本来のあるべき姿=用途=使命であると言えます。
これはヨガの(ギーターの)教えです。
■ 使命を知ることは出来ない
使命をもって生きると人は強くなれます。誰しもマザーテレサやキング牧師まで行かなくても、身近な人でも尊敬する人を知っているでしょう。そしてその人の強さのうちに使命感の存在を発見したことでしょう。
人生が困難さの度合いを増すに従い、私もそうした強さを得たいと思い、”使命”についてしばらく研究していました。 そして、結論。
人は使命を知ることはできない。
なぜなら、人間は被創造物であって、何のために作られたか知ることができないから。
です。
人は、自分の使命を自分のうちだけで知ることは不可能です。もっといえば、使命を知るためには多くの試行錯誤が必要です。
多くの人は、棒として役立っている、あるいは、頭を掻くものとして役立っているペンです。
自分が「書ける」ものだとは知らない。そういうペンです。そのままで人生を終わる人もいるでしょう。
(無論だからと言って役に立たなかった人生ということではありません。ただ活かし切らなかった人生ではあるでしょう)
■ 劣位の才能が教えるもの
ペンにとって、「自分は「書ける」という用途がこなせるのだ」ということは、どうやって知ることができるか?
これは推理する以外の方法はありません。 そして、その推理には絶対的に他者が必要です。
棒として役に立っている本当の棒との比較では、何かのつっかえ棒になるという用途においては、ペンは自分が強度において劣る、ということを知るでしょう…。
あるいは、頭掻きという用途に最高に役立つ棒との比較においては、ペンは自分が劣位である、ということを
知ることで、「頭を掻く」という用途が”自分の最高の活かし方ではない”と知るでしょう。
自分が何かで劣るとき、人はとても悔しく思うものです。それは、間違った認知とはいえないまでも、有益な認知ではないですよね? 劣るということから知るべきことは、自分は何が勝るのか?です。
この点で 判断できることは、次の2点です。
・他人との比較というものは優劣や勝ち負けの判定ではなく、自分の特性を知るという点においてのみ意味がある。
・自分を”活かす”には一体どうしたら良いのか?という視点が、自分の特質(使命)を明らかにする
ペンにとってどうやったら「書ける」という用途を発見することができるでしょうか?
それには誰かがキャップをあけ、柔らかなフェルト部分を紙に押し付ける、という行動をしなくてはなりません。
その(”キャップをとってフェルト先端を紙に押し付ける”という行為)=(才能の発見という事件)です。
そう、才能は誰かによって発見されなければならないのです。対外的に起こるものです。
そしてこの(才能の発見という事件)は、ペンにとっては、異次元の体験のはずです。 なぜなら、自分にしかできないことをやるということはおそらく他の人がやっていない行為をやるということだからです。
そして、実際に「書く」という行為をしたときには違和感や驚きさえ感じたかもしれません。
なぜなら、今までペンは自分の仕事を「つっかえ棒」「頭を掻く」という仕事だと思っていたのですから。
ただ、ペンはこれこそが自分にしかできない仕事だと、これまでの「つっかえ棒」あるいは「頭を掻く」という仕事との比較から自己認識できるはずです。
なぜなら、「自分にしかできない」仕事だからです。同僚の「つっかえ棒」にも「頭掻き」にもできない自分だけができる仕事(=用途)が「書く」ということだからです。それは別に優位性を自慢するのでもなんでもなく、誰がみても明らかですよね?
そして優位がゆえに非常に強い充実感と充足感を得て、他に換えられないために、社会的には成功を得るはずです。 ただ多くの書籍では、そうした充実感や充足感から天職や使命を知るように薦めていますが、その前のプロセスについては述べていません。
しかし、冷静に考えると、このような推理によってしか、人は自分の使命(自分が何のためにこの世に生まれてきたのか?)を知ることはできません。
使命の発見に必要なのは
・まずは色々な面で社会に役立ってみること
・他者との比較で自分にしかない強みや特性を良く知ること
・才能が生かさせるきっかけになる事件
・強い充足感や充実感による裏づけ
です。才能という名の撒かれた種には、肥えた土と日光を求めての発芽競争、そして雨が必要と言うことです。それがあって花が咲き、実が実る。
自分の使命は何か? この拙い文章が、発見の一助になれば幸甚です。