今日は、私は花弁の中に招き入れられたマルハナバチだったのかなぁ…媒介虫、花粉だらけ。
コマルハナバチ君。
アヤメ。
■ 花も虫も動物も景観にさえも…リスペクトが足りていない!
命に対するリスペクト=敬意を払う、ということは、今成立している命を大事にする、ということです。
それは、例えば、宗教などでは絶望や自殺を禁じていたり、堕胎を禁じていたりするのと同じことです。
盗掘されて絶滅してしまいそうな植物に、哀れともの悲しさを感じる…のは…それは、「あからさまな欲望の対象」にされてしまったからなんだなぁ…今日はそう思いました。
There is no respect to a life.
盗掘というのは言ってみれば、花そのものよりカネ、という価値観です。花という存在そのものへのNoRespect…。
それは…言ってしまえば…例えが強烈にならざるを得ないのですが… 要するに…レイプと同じことなんだな。女性なら誰でも(いや海外を旅行するなら日本人男性だって)自分の身に起こりうる最悪の状況は、レイプだと本能的に感じていると思いますが、それは、あからさまな欲望に晒される、という恐怖です。
盗掘というのは、欲望の内容が、性からカネに変わり、対象が人間ではなくて、花に置き換わっているだけで、あからさまな欲望に蹂躙されている、という事実は同じ。蹂躙ということ事実事態が、それを見るものにとっては哀れを感じさせ、悲しくなります。
盗掘の痕跡。花を取って行っても、気候と土、土壌にいる菌が違うためどうせ死んでしまいます。山野草は庭ではなく、山で鑑賞しましょう。
花に何十万円という値札が付けられる様は、まるで花街に出される若い娘のようです。
盗掘者のものと思われる崖を這い上がった跡。
盗掘が現在もまだ続けられているため、盗掘者に所在を伝えないため、花の写真を掲載することが出来ません(><)ほんの一握りの心無い人のせいで、多くの人と美しい花の写真さえもシェアすることができないのです。
盗掘が悲しいのは、登山道にゴミを捨てられるのが悲しいのと同じです。あるいは一切配慮の無い伐採跡を見て悲しいのとも同じことですね。あるいは欲望の跡を示す線香林もです。私は自然に手を入れ、資源を利用していくことは大事だと思いますが、同じ伐採でもその痕跡によって行った人の意図が透けてみえるような気がするときがあります。どのようなひどい傷でも自然という名の生命には自己治癒力がある。でもだからといってリスペクトが要らない、というわけではないでしょう。
リスペクトが足りていない、そのひずみは、それは対自然に対してだけでなく、対人間に対しても同じことがおきるのかもしれません。人は不安な時には攻撃的になります。関西から関東に越してきて感じることの一つは、浮浪者などの弱者に対する視線がとても厳しいことです。
過去の関連記事 山のマナーの考察
人間の自己中心性
■ 救急救命センター
言うまでもないことですが…ヒトの生命誕生は幾重にも重なった偶然によってやっと成立します。
奇跡とも言える偶然の重なり合いによって成立した命。その偶然への驚き。つまり敬意。リスペクト。畏敬の念。それが命を大事に扱うということだ、という風に言いかえることも出来ます。
要するに、敬意を払うということなんですよね。
動植物の保護、あるいはよく言われる生物多様性、という言葉は、多様性が重要であると誤解させます。
そうではなく、今成立している命すべてが奇跡であると知る心、感じる心、リスペクトが大事なのだ、そんなことを今日は考えました。
例えば、「希少な花は価値がある」そんな風に考えると、
「価値があるものだから大事にしなくてはいけない」
↓
「価値が無いものは大事にしなくてもいい」
となります。 では そもそも「価値」とは? 希少性?美しさ?それとも…エトセトラエトセトラ。キリがありません。
”価値”は、計量可能なものです。計量可能なものは比較可能です。
人間は悲しい性で「(計量可能ならば)計らなければ」と考えます。
すると、”数”という概念が生まれます。数え始める。すると「数が多い」= 「希少でない」=「価値が無い」
日本の自然はもう有り余るほど豊かで米なんて取れすぎて減反の対象になったくらいですが、いくら市場で安値しかつかないからと言って、食べた米が栄養にならないということはありません。
希少=少数=マイノリティだから価値がある?ではマジョリティは価値が無いのか? 右利きはマジョリティですが、左利きが価値が無いなんてことはありません。
比較が可能になると、優劣が決まります。ただし、「優れている」ということは相対価値なので、劣っているほうがいなくなったとたん、優れていること自体が消滅します。偏差値75?みんなが100点になれば偏差値50です。が、勉強した内容が失われることはありません。
自然保護の世界は、どうしても人間の色眼鏡が働きます。人間はどうしても劣勢なものに加担しがち。
でもそうするとシカが少ない頃には保護し、多くなれば狩猟し、と永遠に均衡を求めて堂々巡りです。
私はヨガを教えるのですが、ヨガでも体の左右差を取ろうと躍起になって永遠の振り子運動に入り出口はありません。人間の体はそもそも左右不均衡なのです。均衡は目的になりえないのです。
永遠の堂々巡り…どうしてそんなことになってしまうのか?
ヒトが頭で考え、直感を信用しないことに決めたからではないか?そんなことを思いました。
何かのモノサシで図らなくてもいい…ただただ、生命は大事にされるということ。あなたはあなたでいるだけで価値がある。
絶滅危惧種の保護活動は、要するに人間界に例えると、救急救命センターです。
そして胸を打つのは、結果として救ったか救わなかったかという実績や事実よりも、救おうと思う
心の働きそれ自体。そこに人間の神性があるのだと思います。結果よりむしろプロセスに重さがあります。
人は自然においては少し理性を手放して、畏れと直感を取り戻すべきなのでしょう…
これはアサギマダラ。遠く台湾と日本を往来することで知られる蝶。八ヶ岳など高山でよく見られますが低い標高からあがっていくので時期によっては低山でも。
http://araikazuya.blog97.fc2.com/blog-entry-996.html


■ 花も虫も動物も景観にさえも…リスペクトが足りていない!
命に対するリスペクト=敬意を払う、ということは、今成立している命を大事にする、ということです。
それは、例えば、宗教などでは絶望や自殺を禁じていたり、堕胎を禁じていたりするのと同じことです。
盗掘されて絶滅してしまいそうな植物に、哀れともの悲しさを感じる…のは…それは、「あからさまな欲望の対象」にされてしまったからなんだなぁ…今日はそう思いました。
There is no respect to a life.
盗掘というのは言ってみれば、花そのものよりカネ、という価値観です。花という存在そのものへのNoRespect…。
それは…言ってしまえば…例えが強烈にならざるを得ないのですが… 要するに…レイプと同じことなんだな。女性なら誰でも(いや海外を旅行するなら日本人男性だって)自分の身に起こりうる最悪の状況は、レイプだと本能的に感じていると思いますが、それは、あからさまな欲望に晒される、という恐怖です。
盗掘というのは、欲望の内容が、性からカネに変わり、対象が人間ではなくて、花に置き換わっているだけで、あからさまな欲望に蹂躙されている、という事実は同じ。蹂躙ということ事実事態が、それを見るものにとっては哀れを感じさせ、悲しくなります。

花に何十万円という値札が付けられる様は、まるで花街に出される若い娘のようです。

盗掘が現在もまだ続けられているため、盗掘者に所在を伝えないため、花の写真を掲載することが出来ません(><)ほんの一握りの心無い人のせいで、多くの人と美しい花の写真さえもシェアすることができないのです。
盗掘が悲しいのは、登山道にゴミを捨てられるのが悲しいのと同じです。あるいは一切配慮の無い伐採跡を見て悲しいのとも同じことですね。あるいは欲望の跡を示す線香林もです。私は自然に手を入れ、資源を利用していくことは大事だと思いますが、同じ伐採でもその痕跡によって行った人の意図が透けてみえるような気がするときがあります。どのようなひどい傷でも自然という名の生命には自己治癒力がある。でもだからといってリスペクトが要らない、というわけではないでしょう。
リスペクトが足りていない、そのひずみは、それは対自然に対してだけでなく、対人間に対しても同じことがおきるのかもしれません。人は不安な時には攻撃的になります。関西から関東に越してきて感じることの一つは、浮浪者などの弱者に対する視線がとても厳しいことです。
過去の関連記事 山のマナーの考察
人間の自己中心性
■ 救急救命センター
言うまでもないことですが…ヒトの生命誕生は幾重にも重なった偶然によってやっと成立します。
奇跡とも言える偶然の重なり合いによって成立した命。その偶然への驚き。つまり敬意。リスペクト。畏敬の念。それが命を大事に扱うということだ、という風に言いかえることも出来ます。
要するに、敬意を払うということなんですよね。
動植物の保護、あるいはよく言われる生物多様性、という言葉は、多様性が重要であると誤解させます。
そうではなく、今成立している命すべてが奇跡であると知る心、感じる心、リスペクトが大事なのだ、そんなことを今日は考えました。
例えば、「希少な花は価値がある」そんな風に考えると、
「価値があるものだから大事にしなくてはいけない」
↓
「価値が無いものは大事にしなくてもいい」
となります。 では そもそも「価値」とは? 希少性?美しさ?それとも…エトセトラエトセトラ。キリがありません。
”価値”は、計量可能なものです。計量可能なものは比較可能です。
人間は悲しい性で「(計量可能ならば)計らなければ」と考えます。
すると、”数”という概念が生まれます。数え始める。すると「数が多い」= 「希少でない」=「価値が無い」
日本の自然はもう有り余るほど豊かで米なんて取れすぎて減反の対象になったくらいですが、いくら市場で安値しかつかないからと言って、食べた米が栄養にならないということはありません。
希少=少数=マイノリティだから価値がある?ではマジョリティは価値が無いのか? 右利きはマジョリティですが、左利きが価値が無いなんてことはありません。
比較が可能になると、優劣が決まります。ただし、「優れている」ということは相対価値なので、劣っているほうがいなくなったとたん、優れていること自体が消滅します。偏差値75?みんなが100点になれば偏差値50です。が、勉強した内容が失われることはありません。
自然保護の世界は、どうしても人間の色眼鏡が働きます。人間はどうしても劣勢なものに加担しがち。
でもそうするとシカが少ない頃には保護し、多くなれば狩猟し、と永遠に均衡を求めて堂々巡りです。
私はヨガを教えるのですが、ヨガでも体の左右差を取ろうと躍起になって永遠の振り子運動に入り出口はありません。人間の体はそもそも左右不均衡なのです。均衡は目的になりえないのです。
永遠の堂々巡り…どうしてそんなことになってしまうのか?
ヒトが頭で考え、直感を信用しないことに決めたからではないか?そんなことを思いました。
何かのモノサシで図らなくてもいい…ただただ、生命は大事にされるということ。あなたはあなたでいるだけで価値がある。
絶滅危惧種の保護活動は、要するに人間界に例えると、救急救命センターです。
そして胸を打つのは、結果として救ったか救わなかったかという実績や事実よりも、救おうと思う
心の働きそれ自体。そこに人間の神性があるのだと思います。結果よりむしろプロセスに重さがあります。
人は自然においては少し理性を手放して、畏れと直感を取り戻すべきなのでしょう…

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