マヨの本音

日本の古代史から現代まで、歴史を学びながら現代を読み解く。起こった出来事は偶然なのか、それとも仕組まれたものなのか?

広開土王の石碑は何処の話?

2021年06月12日 21時22分32秒 | 歴史の翻訳
追加しました。ヒッタイトのミタンニ侵攻部分を翻訳してみました。(終りの方に載せました。めんどくさいので読みたい人だけ読んでみて)

姫さまからアメンホテプ4世がスパルタへ追放されたと聞きましたが、エジプト第十八王朝が倭国のことであり、第十九王朝が始まる時期にギリシャへ移動したという。そしてこれが俀国の正体です。エジプト第十九王朝は隋国に比定します。
エジプト王・隋の煬帝にあてた俀国の国書には「太陽の登る処の天子が太陽の沈む処の天子に届ける。・・・」、煬帝が怒ったというより本当の話だったわけです。
倭国がギリシャに移動したことは分かっていましたがスパルタと特定されたことには少々驚きました。
そのあたりの18王朝の謎解きはゆっくりと説明してゆくつもりですが、その前にどうしてもヒッタイトを先に説明しておきたいと思います。中国史はオリエント史の翻訳だと言いましたが、それ以上に興味深いのはヒッタイトは高句麗で、ミタンニ王国が百済だという。
その百済が日本を征服し、さらにその後新羅が支配、そして高句麗が百済と新羅を操るという構図、これが日本の真の姿なのだと。
しかしながら本当に翻訳なのか、これを確認するため一つの方法を思いつきました。それは主だった戦争の記録をたどることです。大きな戦いは必ず記録されます。それも両方に。丹念に記録をたどればきっと真実が見えてきます。今日はその一つを試してみました。
ヒッタイトの歴史を調べる前に有名な広開土王の碑文を見てみよう。好太王(スキタイ王)として日本でも有名な高句麗王ですね。WIKIから引用してみましょう。
「碑文は三段から構成され、一段目は朱蒙による高句麗の開国伝承・建碑の由来、二段目に好太王の業績、三段目に好太王の墓を守る「守墓人烟戸」の規定が記されている。そのうち、倭に関する記述としては、いわゆる辛卯年条(後述)の他に、以下がある。
399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。」

さて、ヒッタイトの王統はかなりややこしく、好太王にふさわしいのはスッピルリウマ1世かムワタリ2世ぐらいか。ただ、ムワタリ2世のころ「カデシュの戦い」が起こり、この当時のエジプト王はラメセス2世で少々時代が進んでいる。つまり、好太王はスッピルリウマ1世しかいない。そうだろうか?

wikiで調べてみよう。その前に、時代はBC1355ごろのことであり、碑の年号と言われる西暦400年ごろから千年も昔の話であることはご承知ください。
「ヒッタイト王の即位期間や年代を確定することは、史料に年代を窺わせる言及が少ないため至難の業である。シュッピルリウマ1世の場合、息子ムルシリ2世の治世9/10年目に日食が発生したことが記録されている。編年研究の進んでいるエジプトやメソポタミアの諸王との書簡のやり取りの分析に基づく同時代性を考慮しながら、この皆既日食の可能性を計算すると、紀元前1335年2月28日と、紀元前1312年6月12日という数字が得られる。それにムルシリとその父シュッピルリウマの年齢や在位期間を勘案して計算すると、シュッピルリウマの在位期間は中位年代編年で紀元前1355年頃 - 紀元前1320年頃、しかしいずれも推定に過ぎないことに留意しなくてはならない。・・・・」

うーん、ミタンニとエジプトに関しwikiは長々と文章が続くが、簡略化できない。まあ、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%83%9E1%E4%B8%96を見てください。

結論から言うと石碑の内容とwikiの記事はおおむね一致すると見て間違いない。とはいうものの、完全に一致とするほどの確証は得られない。高句麗がヒッタイトだったかどうか、ミタンニが百済だったのかさらに調べていきます。

千年も昔の歴史をわざわざ持参し、その地域の歴史を抹殺したのは誰だ?本当の失われた歴史はどこかに残っているのだろうか、
吉林省に存在するこの石碑はスキタイ王の名前で有名で、つまりヒッタイトがスキタイ族を率いて朝鮮にやってきたと言えるのではないだろうか。

実は毎日このような作業を延々と続けています。中国の歴史はオリエントの歴史だという話だったが、実は日本の歴史の中にエジプトの歴史が入っていると。これは何を意味するのか?
今日の話の高句麗好太王碑の後、白村江の戦いが起きる。これが謎の多い「トロイ戦争」のことで、これで倭国は表から消える。そこから日本が始まる。これがなんと!古事記と日本書紀の違いになると。
古事記は白村江で終わり、それ以降の歴史は日本書紀になるのだと。
うーん、面白過ぎて仕事が手につかない・・・・。

さて、今後のために対照表を作りました。参考にしてください。
アッシリア=周  バビロニア=魏(基本的に)  エラム=呉
アモリ、ミタンニ=百済 アルザワ=新羅 ヒッタイト=高句麗
カスガー=鮮卑 ウラルトゥ=趙 リビア=突厥 アヒヤワ=任那? 
スミルナ=白村江? 秦=ペルシャ(基本的に) 魯=ユダ王国
宋=ヘブライ王国またはイスラエル王国 フリル=扶余
他にもありますが、徐々に・・・。

ミタンニ攻略の翻訳文 ヒッタイト王シュピルリウマ1世のWIKIでミタンニ侵攻部分をアジア向けに翻訳してみました。そして百済の歴史と比べてみると、ほぼ同じ内容になることが確認できました。
百済侵攻(ミタンニ侵攻)
ついで阿莘王(トゥシュラッタ)が新たな百済王(ミタンニ王)になると、広開土王(シュッピルリウマ1世)は百済(ミタンニ)を攻撃したが失敗した。この後高句麗王(シュッピルリウマ1世)は後燕王慕容盛(北シリア)の交易拠点都市(ウガリット)を傘下に納めて従属条約を締結するとともに、婚姻外交によって北魏(バビロン第3王朝)(カッシート)と同盟を結んで百済(ミタンニ)に圧力をかけた。そして改めて百済(ミタンニ)を攻撃するべく扶余人(フルリ人)の国家契丹(イシュワ)を攻略し、更に百済(ミタンニ)の首都漢山城(ワシュカンニ)を目指した。阿莘王(ミタンニ王トゥシュラッタ)は戦わずして逃亡したが、その後息子に殺された。 東南の「扶余(フルリ人)の王」の称号を持つに過ぎなかった訓解?(アルタタマ2世)と条約を結んで東方の国境線を定めた。広開土王(シュッピルリウマ1世)は百済(ミタンニ)の新王として阿莘王(トゥシュラッタ)の政敵であった訓解?(アルタタマ2世)を擁立した。

この様に、歴史の比較は非常に大変なのです。しかしものすごく勉強になります。


モーゼは海を渡ったのか?

2021年05月29日 17時50分03秒 | 歴史の翻訳
実は明日、愛知県のコロナ大規模接種会場である名古屋空港特設会場へ行くことになってます。95歳になる母が接種を望んだためです。私自身は宗教?の(うそですが・・・)関係でワクチンを受ける予定はありません。ただその信念を母親に押し付ける必要はないから本人の希望通りにすることにしました。
今回のコロナ騒動はワクチンの接種が広まらない限り終わりそうもないので、なるべく早く接種が進めばいいと思う反面、得体の知れないワクチンを広めることに大きな不安も感じています。まあ、最初から落としどころが決まっていることなのだから、私がどうすることもできない。まあ、なるようになるとしか言えないな。ワクチンをうつのも打たないのも自由なんだから、私は打たないリスクを負うことにする。

さて、ずっと歴史捏造の歴史を勉強しています。一か月ほど毎日本を読んでいる、と言っても時間もないし、仕事で疲れているのでそれほど長時間できるものでもない。ただ、中国の歴史、もっぱら史記なのですが、これがすべてオリエントの歴史の翻訳であるという話で、細かいことはともかくとして、調べてみると意外に比較は単純で、大まかなところはすぐに納得できてしまう。もちろん単純じゃない部分もあるし、比較が困難な部分は多々ある。しかし、頭脳明晰な歴史学者たちがこれらに気が付かないはずはないし、逆にあまりにも明白なため今さら誰も言い出さないというのが現実なのじゃないかとも思う。そう、今さらそれを明らかにしたところで誰も得をしないし、失うものが多すぎるから「嘘はうそのまま置いておこう」としているのではないだろうか。ただ私も大好きな中国の古代史の歴史物語がインチキとなるとあの「関羽と劉邦」とか「三国志」は一体何なんだよー、ってことですよね。

ことはどうあれ私は歴史捏造を知らんふりするわけにはいかない。何よりもオリエント史と聖書の食い違う理由が、ひょっとすると中国史とオリエント史の比較であぶりだされるかもしれない。また、オリエント史を中国史に翻訳するテクニックと同じことが日本史や朝鮮史にも使われていることは当然で、手法さえわかれば、逆に日本史の構造もわかる可能性がある。また、良く分かっていないトロイ戦争が白村江の戦いのことだとわかると実際の戦いの真実が見えてくるかもしれない。
またその昔、木村鷹太郎氏の主張した邪馬台国エジプト説も現在では確信に変わりつつある。それは倭国自体がエジプトからギリシャへ移動し、その後スパルタ、中国の中原を経て日本へやってきたルートも納得できる。

鹿島昇氏によると春秋戦国時代の魯の国は北朝イスラエルであり、南朝ユダが宋の国に相当するという。アブラハムから魯の歴史「魯世家」を調べるとモーセは恵公弗湟にあたる。魯の歴史とヨセフ、ヤコブらのエジプト時代は良く対応する。しかし、モーゼの行ったとする出エジプトに当たる事件は起きていない。鹿島は旧約のその部分は創作で、司馬遷は創作された話は知らなかったのではないかと述べる。つまり、バビロン捕囚時代のユダヤ人がやがてバビロンを脱出し聖地に帰ることができるという先例を、つまり偽造したのだと。
さて、「歴史は西から・・」の一番のハイライトはヘブライ王国の時代設定で、一般的な年代ではなく約500年ほど古代へずらしている。このことによりソロモンに会いに来たシバの女王が実はエジプト女王ハトシェプストであることになると述べる。
このことで謎の多いアメンヘテプ2世の宗教革命がユダヤ一神教だったこともわかるのだ。これは紀元前16世紀のことである。
すると「ユダヤ人の起源」で指摘されているところの「メルエンプタハの碑文で示されたように、エジプト脱出が行われたとされる紀元前13世紀にはカナンは全能のファラオの支配下にあり、モーゼはエジプトから脱出はできないし、すでにカナンにはイスラエルと言う名前の小文化集団がいたことが分かっている」との記述と矛盾しなくなる。
エジプトで起きた宗教革命とユダヤ教のつながり、そしてモーゼとエジプト王との関係を旧約側は隠蔽したのか?

まあ、こんなちっぽけな真実のかけらを集めているので勉強はなかなか進まない。
また、何が面白いかわからないと思う人もいるかもしれないが、私にとってはまったくワクワクする作業なのです。
少しずつ発表したいと思っていますから待っててください。

参考資料 歴史捏造の歴史①(鹿島昇 新国民社)、歴史捏造の歴史②(鹿島昇 新国民社9
歴史は西から東へ(稲葉太郎 鳥影社) 史記解(鹿島昇 新国民社) ユダヤ人の起源(シュロモーサンド 
ランダムハウス)