さて、只今うどんの修行中であります。といっても、先生は私の弟子です。つまり、八年前に私が教え込み、うどん屋の店長に仕立て上げた彼からもう一度学びなおすことになったのである。
十年前(2000年)、ちょうどカフェが設立5年を向かえ、まさに私も絶頂期だった。とにかくものすごい利益が出ていた。月五十万ぐらいの現金が私の手元に残ってきた。七年で返済する予定だったカフェの開業費の返済は繰り上げて完済出来る状態になっていた。しかし、折からの金融危機は私を決して天狗にしなかった。絶対にこの先カフェも売上が落ちていくだろう、そう思った。そこで、手元の資金を再投資し、今後予想される不景気に備えようと考えた。
そして名古屋名物で、大好物の「味噌煮込み」を商売にしようと思いつき、家で麺をこね、企業秘密の味噌煮込みの元を作り試作した。おいしいのだ・・・・すんごく。味噌煮込みのうどんは塩を入れずにこねる。なぜなら煮込むとき塩分が入るとしょっぱくなるからね、でも、いつまでたってもゆだらない。塩が入っていないとゆだらないの。味噌はもちろん赤味噌、そこへみりんとたまり醤油を入れるんだ。そうすると本場名古屋の味噌煮込みの味が出来る。山本屋総本店の味はコピーできた。完璧だ。
そこで、店舗屋さんに相談し、図面を引いた。そして相談する中で彼から手打うどんを作る機械が讃岐にあると聞いた。そこでその機械メーカーの一泊二日の体験学習に参加した。
坂出で製麺機の会社に案内され、さぬきうどんの有名店を回った。最初の店でざるうどんを食べた。見栄を張って大盛りを食べた、それが間違いだったと気づくのにそれほどの時間はかからなかった。つまり、そのあと三軒のうどん屋を回る羽目になったのだ。さすがにげっぷが出たな。もうおいしいというより拷問のようである。
そしてメーカーのショウルームでうどんの実演を体験。さらにうどんの基礎講座を受けた。そして次の日最後に行った店が私の人生を変えた。それはしょうゆうどんの小縣屋というところだった。最初に注文するとおろし金と大根が一本、自分で大根をおろせってか?そしてうどんが来た、けどただの冷えた白玉うどん。自分でおろした大根を乗せショウガとネギをのせて生しょうゆをかけて食べる。これがうまい!びっくり、たぶん、当時400円だったと思う。讃岐では高級店なのである。びっくりした!
帰りの新幹線の中で店舗屋さんへ電話し、「おーい、マヨだよ。味噌煮込みは中止だ。讃岐うどんの店に変更だ。」
さあ、思えばこれが私の人生を狂わせる原因になったのである。
実はうどん屋は大当たりしたのだ。二年後にはたった10坪にも満たない小さな店なのに、毎日昼だけで120人のお客が来てくださった。平均500円でも6万円、いそがしいたら、もうくたくたになってしまった。さすがに体が持たないと思っていたとき、自分の野球チームのメンバーが会社を辞めたいと相談してきた。まだ38歳で体力はあるし、やる気もあるみたい。冗談半分で「この店任せようか?」と持ちかけたら次の日には会社へ辞表を提出していた。
それから8年、まかせっきりだった私が悪いのだが、知らないうちに味は落ち、うどんの作り方もいいかげん、お客は去り、折からの不景気で用意していた数百万の貯金はそこをつき、累積債務までできてしまった。
その間私も色々な手を打ってきたが、根本的には私が最初に教えた基本的なことが守られていないことがわかった。というのも、現在彼からうどんつくりを教わっているが、基本は私のほうができている。彼の教えることがでたらめなのである。「おい、こんなこと教えてないじゃないか。どうしてこんなことをしてきたんだ?」
こんな会話ばかりである。麺は生き物である。刻々と熟成してゆく。熟成不足の麺は白っぽい、熟成すると透明感が出る。いわゆるイカの刺身のように外が透明、中心が真っ白という麺は適度な熟成が必要である。
ところが彼の麺は過熟成なのだ。
なぜ気が付かなかったか?うーん、やはり彼の店だから口を出さないほうが良いと思ったのだが、やっぱり私の管理責任だな。
彼は面倒だからたくさんつくりだめし、何日も前の麺を出していたのだ。「でも、お客は気がつきませんよ・・・」、「馬鹿言うんじゃない。通はごまかせんぞ。二度とこないだけだ!」
やれやれ、きのう、残った麺は全部捨てた。今日からは、今日のうどんは今日作ったものを出す。そう決めた。
一度失った信用はそう簡単には取り戻せない。しかし、やり遂げねばならない。
後にも先にも私の現場体験は一泊二日の研修だけで、あとは全部自分で考えてやってきたのだ。八年間で全部忘れたことを今一生懸命思い出しながら再出発を心に誓った。
うどんは難しい。加水率、塩分濃度、熟成時間、すべては科学的な問題だが、やはり経験と感の支配する世界なのだ。だから面白い。なんとかなるさ。
十年前(2000年)、ちょうどカフェが設立5年を向かえ、まさに私も絶頂期だった。とにかくものすごい利益が出ていた。月五十万ぐらいの現金が私の手元に残ってきた。七年で返済する予定だったカフェの開業費の返済は繰り上げて完済出来る状態になっていた。しかし、折からの金融危機は私を決して天狗にしなかった。絶対にこの先カフェも売上が落ちていくだろう、そう思った。そこで、手元の資金を再投資し、今後予想される不景気に備えようと考えた。
そして名古屋名物で、大好物の「味噌煮込み」を商売にしようと思いつき、家で麺をこね、企業秘密の味噌煮込みの元を作り試作した。おいしいのだ・・・・すんごく。味噌煮込みのうどんは塩を入れずにこねる。なぜなら煮込むとき塩分が入るとしょっぱくなるからね、でも、いつまでたってもゆだらない。塩が入っていないとゆだらないの。味噌はもちろん赤味噌、そこへみりんとたまり醤油を入れるんだ。そうすると本場名古屋の味噌煮込みの味が出来る。山本屋総本店の味はコピーできた。完璧だ。
そこで、店舗屋さんに相談し、図面を引いた。そして相談する中で彼から手打うどんを作る機械が讃岐にあると聞いた。そこでその機械メーカーの一泊二日の体験学習に参加した。
坂出で製麺機の会社に案内され、さぬきうどんの有名店を回った。最初の店でざるうどんを食べた。見栄を張って大盛りを食べた、それが間違いだったと気づくのにそれほどの時間はかからなかった。つまり、そのあと三軒のうどん屋を回る羽目になったのだ。さすがにげっぷが出たな。もうおいしいというより拷問のようである。
そしてメーカーのショウルームでうどんの実演を体験。さらにうどんの基礎講座を受けた。そして次の日最後に行った店が私の人生を変えた。それはしょうゆうどんの小縣屋というところだった。最初に注文するとおろし金と大根が一本、自分で大根をおろせってか?そしてうどんが来た、けどただの冷えた白玉うどん。自分でおろした大根を乗せショウガとネギをのせて生しょうゆをかけて食べる。これがうまい!びっくり、たぶん、当時400円だったと思う。讃岐では高級店なのである。びっくりした!
帰りの新幹線の中で店舗屋さんへ電話し、「おーい、マヨだよ。味噌煮込みは中止だ。讃岐うどんの店に変更だ。」
さあ、思えばこれが私の人生を狂わせる原因になったのである。
実はうどん屋は大当たりしたのだ。二年後にはたった10坪にも満たない小さな店なのに、毎日昼だけで120人のお客が来てくださった。平均500円でも6万円、いそがしいたら、もうくたくたになってしまった。さすがに体が持たないと思っていたとき、自分の野球チームのメンバーが会社を辞めたいと相談してきた。まだ38歳で体力はあるし、やる気もあるみたい。冗談半分で「この店任せようか?」と持ちかけたら次の日には会社へ辞表を提出していた。
それから8年、まかせっきりだった私が悪いのだが、知らないうちに味は落ち、うどんの作り方もいいかげん、お客は去り、折からの不景気で用意していた数百万の貯金はそこをつき、累積債務までできてしまった。
その間私も色々な手を打ってきたが、根本的には私が最初に教えた基本的なことが守られていないことがわかった。というのも、現在彼からうどんつくりを教わっているが、基本は私のほうができている。彼の教えることがでたらめなのである。「おい、こんなこと教えてないじゃないか。どうしてこんなことをしてきたんだ?」
こんな会話ばかりである。麺は生き物である。刻々と熟成してゆく。熟成不足の麺は白っぽい、熟成すると透明感が出る。いわゆるイカの刺身のように外が透明、中心が真っ白という麺は適度な熟成が必要である。
ところが彼の麺は過熟成なのだ。
なぜ気が付かなかったか?うーん、やはり彼の店だから口を出さないほうが良いと思ったのだが、やっぱり私の管理責任だな。
彼は面倒だからたくさんつくりだめし、何日も前の麺を出していたのだ。「でも、お客は気がつきませんよ・・・」、「馬鹿言うんじゃない。通はごまかせんぞ。二度とこないだけだ!」
やれやれ、きのう、残った麺は全部捨てた。今日からは、今日のうどんは今日作ったものを出す。そう決めた。
一度失った信用はそう簡単には取り戻せない。しかし、やり遂げねばならない。
後にも先にも私の現場体験は一泊二日の研修だけで、あとは全部自分で考えてやってきたのだ。八年間で全部忘れたことを今一生懸命思い出しながら再出発を心に誓った。
うどんは難しい。加水率、塩分濃度、熟成時間、すべては科学的な問題だが、やはり経験と感の支配する世界なのだ。だから面白い。なんとかなるさ。