あまり皆さんの興味の外かもしれませんが、私たちの健康に非常に重要である塩についてもう少しだけこだわってみたいと思います。
細かい話が多くて恐縮です。しかしどう考えても削れないところが多く結果こんなに読みにくい記事になりました。面倒なら読み飛ばしてください。
先日の記事の中で天然塩には塩化カリウム、塩化カルシウム、塩化マグネシウムなどのいわゆるミネラルが豊富に含まれると述べました。が、我々が今普通に使っている食卓塩はNaClという化学物質であります。どうしてこうなったかを調べる必要があるのではないか‥‥と思うわけです。
引用はじめ
まず、ある法律ができました。塩業近代化臨時措置法であります。
「塩業近代化臨時措置法は、正式名称を「塩業の整備及び近代化の促進に関する臨時措置法」と言います。
1971年(昭和46年)4月に施行されました。
内容は、かいつまんで言うと
1.民間企業が日本の海水から塩を製造してはならない
2.民間企業が独自に海外から塩を輸入してはならない
というものでした。
自由に塩を作ってはいけない、という法律です。
日本専売公社(後に日本たばこ産業:JT)が国内需給確保を目的として
イオン交換膜製法によって塩を製造販売しました。
製塩工程全体が装置産業化する、日本の製塩史上で稀に見る大改革だったのです。
これに伴い昭和20年代後半から始まった全国の流下式塩田すべてが廃止されました。
その背景には日本の工業化推進の為という理由がありました。
塩化ナトリウムは、多くの工業製品の基礎素材であるソーダ生産には欠かせない原料です。また、海に面した広大な塩田は工業用コンビナートの恰好の立地場所でした。
工業用地と工業素材の必要性、工業立国という国家の一大方針によって、塩が塩と呼べない化学物質に置き換わりました。
1985年(昭和60年)に日本専売公社が民営化(日本たばこ産業に移行)し、塩の販売も専売制から徐々に自由に販売できるようになりました。
1997年(平成9年)4月塩専売法は、国の自由化政策の一環として廃止され、塩事業法の制定のもと、国内で自由に塩を作れるようになりました。
2002年(平成14年)4月から塩の販売が自由化され海外の塩が輸入できるようになりました。
これが現在流通している塩がミネラルをほとんど含まない塩化ナトリウムの塊になった経緯です。塩が自由に製造販売できる今日でも、設備が揃っていて安く作れるイオン交換膜製法が主流になっています。
塩業近代化臨時措置法が施行されたことのツケが今でも残っていると言えます。
以上 引用元 https://www.kanzen-tenpiboshi-shio-japan.info/blog/2015/01/25/engyo-kindaika-rinjisochiho/より
法律と言うのは建て前の名前が付けられます、が、実態はそんなにきれいなものではないのです。
水俣病が発生したのです。
昭和31年(1956)、水俣市に住む少女が手足がしびれ、口がきけず、食事ができないなどの重い症状を訴え、チッソ水俣工場附属病院に入院する。これが水俣病の公式確認の最初である。
昭和34年、熊本大医学部水俣病研究班は「水俣病の原因物質は水銀化合物、特に有機水銀であろうと考えに至った」ことを報告。
昭和40年、新潟で有機水銀中毒と思われる患者が発生した。昭和42年、昭和電工の排水が原因であると厚生省に報告が入る。
昭和43年、厚生省及び科学技術庁は熊本で発生した水俣病についてはチッソ水俣工場の「アセトアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物」が原因であり、新潟水俣病については昭和電工の「アセトアルデヒド製造工程中に副生されたメチル水銀化合物う」がっ中毒発生の基盤であると発表した、
ここに至るまでの騒動に関して今回割愛せざるを得ないが、地域を真っ二つに割る大騒ぎだったことは間違いない。
チッソの水俣工場は昭和43年(1968)、アセトアルデヒドの生産は停止、昭和電工は昭和40年(1965)にはアセトアルデヒド生産工程は閉鎖されている。
さて、この両者がどうして有機水銀を排出したのかと言うと、水酸化ナトリウムを得る方法として電解ソーダ法の中の水銀法を使用していたからである。
水銀法とは「電解槽の床面に水銀を敷き、それに対向するように黒鉛陽極または金属陽極を配置し、その間に食塩水を通じて電解すると、陽極では塩素が発生し、陰極は0.2~0.5%のナトリウムを含むナトリウムアマルガムとなる。これを黒鉛粒子を充填(じゅうてん)した分解塔へ水とともに送り込むと、分解してカ性ソーダと水素が生成し水銀に戻る。」当時隔膜法と比べ高純度な水酸化ナトリウムが得られるということで主に本法が採用されていた。
水銀法による損失水銀量の問題は第 3 水俣病が発表されて以来,社会不安を激化させるに至り,政府は 1973(昭和 48)年,水銀法苛性ソーダ製造における水銀の損失を低減させるためのクローズドシステムの徹底と 1978 年までに水銀法を全て隔膜法に転換することを決めた。
ところが,隔膜法では苛性ソーダ中に NaCl が1% 程度混入しており,酸化力の強い塩素酸ソーダも多く,化学繊維,セロファン,無機薬品,調味料,有機化学,石油化学等には利用できないことがわかった(苛性ソーダ全消費量の約 25% に相当)。また,塩素ガスについても塩化ビニルの原料等,41% の分野で使用不能であった。更に,昭和 50 年における新設の隔膜法は既存の水銀法に比べ,約 4 割高くなることが見込まれた。しかしながら,苛性ソーダの製法転換,即ち,水銀法から隔膜法への転換を徹底させるため,通産省は隔膜法および水銀法両製品の等量交換並びに価格差決裁制度の設立によるコスト差額の上乗せを実施し,97.5 万トンの苛性ソーダに対し 38.7 億円を支出し,転換を促進した。政府は電解苛性ソーダの製法を水銀法から隔膜法へ転換することを決定したものの,隔膜法は水銀法にくらべて消費エネルギー及び品質の点でも劣っていた。水銀法を隔膜法に全て転換することは,産業の国際競争力維持の観点からも困難であり,イオン交換膜法等の革新技術の開発が望まれていた。
旭化成は昭和 50 年,イオン交換膜のガス付着防止,プラズマ溶射による陰極活性化を実現し,イオン交換膜法苛性ソーダ 4 万トン / 年の世界初の商業ベースを実現した。旭硝子も昭和 49 年,カルボン酸系イオン交換膜を合成し,昭和 58 年には高性能膜,低過電圧陰極,ゼロギャップ電解槽からなる省エネルギー型電解システムを開発した。旭化成,旭硝子およびトクヤマの 3 社の技術が海外でも広く使われるようになってきた。
要は何が言いたいかと言うと、有機水銀で大きな公害を引き起こした原因はソーダ電解にあったわけで、その解決策として苦労して開発したのがイオン交換膜法だったということです。
ところが、同じイオン交換膜法で苛性ソーダを作るのは何の問題もないが、なぜ従来の塩の製法をイオン交換膜方式に変えなくてはならないかの説明はとても不可解なことではないだろうか。
これにはチッソと言う会社を調べなくてはならない。実はWIKIを調べるまでもなくこの会社は日膣コンツェルンの中心に位置する会社だった。
日本窒素肥料の発展(wiki)
当初の石灰窒素事業は必ずしも順調ではなく、藤山が世界で初めて連続的生産方法を開発したものの、製品の窒素含有量が少ないなど技術的課題があった。工場で製造を指導していたのは藤山であったが、創業間もない企業として製品化を急いでいたこともあり、野口は藤山を押しのけ悪戦苦闘の末に最初の製品を作り上げた。しかしこのことで藤山は日本窒素肥料を去り、三井の資本で電気化学工業を設立し強力な競争相手となった。
1914年の第一次世界大戦の影響で、それまで日本市場の過半を占めていたイギリスからの硫安の輸入が途絶し、硫安の市場価格は3倍近くに急騰し、高値は1918年まで続いた。日本窒素肥料は国内原料と自家発電を利用していたため生産費の上昇がなく、大戦中に大きな利益を上げた。得られた資金を原資に事業拡大を考えていた野口は、戦争が終結したヨーロッパに1921年赴き、ドイツのグランツシュトフ社のビスコース人造絹糸技術、イタリアで最新のカザレー(イタリア語版)法アンモニア合成技術の導入を決めた。この二つの技術を実現するために、ベンベルグ絹糸製造の旭絹織物、アンモニア合成の延岡工場が建設された(いずれも現在の旭化成の前身)。人絹糸を処理するときに得られるニトロセルロースは綿火薬の原料であり、平和産業から戦時産業へ転換可能な製品である。またカザレー式アンモニア合成法の導入により、森矗昶の昭和肥料(現・昭和電工)と激しく競争しながら日窒は国内総生産高の多くを占めるにいたった。(以上WIKIより)
要はこの会社の本性は粉屋だったということ。粉とは火薬のことです。そうそう、プルトリウムも粉屋の仕事です。粉屋というと貧弱な商売を思い浮かべるかもですが、実はとんでもない。要は黒のカラスの本業、仕事場所なのです。
彼らの別名は戦争屋、あるいは死の商人です。この部分については〇〇宮もシオニストも手は出せません。
フランク帝国の時代、大王の妾腹の子の嫁ぎ先、カスティーリャとアラゴンに黒の権益を定めたわけで、のちにこれはスペインになる。そして大航海時代となりはるばる日本にもやってきたと。これが前田家と七福無尽につながり、北陸宮と旭将軍との話になります。
ちなみに緑は主に農業、資源、黄色は主に兵器。従って日本製原爆でおなじみの原爆の起爆装置は黄色、爆弾は黒の商材となります。
長々と書いてきましたが、粉屋のチッソが崩壊の危機に陥っていた場面で国を挙げて危機を救ったという話なのです。そして国民はその分高くてしょっぱいだけの食卓塩を使わざるを得なくなったということになります。まあ現在は自由に塩を選べるようになり塩の持つ魅力を再認識できるようになったのは喜ばしいことですが、国民の健康よりも粉屋のほうが大事だったことは忘れてはならないですね。
実は明後日東京へ行き第二回目の打ち合わせが予定されています。できれば今回の話の中で私が調べられなかったところ、知りえなかったところを聞くことができればいいなと思っています。
メソポタミア・ヴァレーの進捗状況を教えていただく予定です。また報告します。
細かい話が多くて恐縮です。しかしどう考えても削れないところが多く結果こんなに読みにくい記事になりました。面倒なら読み飛ばしてください。
先日の記事の中で天然塩には塩化カリウム、塩化カルシウム、塩化マグネシウムなどのいわゆるミネラルが豊富に含まれると述べました。が、我々が今普通に使っている食卓塩はNaClという化学物質であります。どうしてこうなったかを調べる必要があるのではないか‥‥と思うわけです。
引用はじめ
まず、ある法律ができました。塩業近代化臨時措置法であります。
「塩業近代化臨時措置法は、正式名称を「塩業の整備及び近代化の促進に関する臨時措置法」と言います。
1971年(昭和46年)4月に施行されました。
内容は、かいつまんで言うと
1.民間企業が日本の海水から塩を製造してはならない
2.民間企業が独自に海外から塩を輸入してはならない
というものでした。
自由に塩を作ってはいけない、という法律です。
日本専売公社(後に日本たばこ産業:JT)が国内需給確保を目的として
イオン交換膜製法によって塩を製造販売しました。
製塩工程全体が装置産業化する、日本の製塩史上で稀に見る大改革だったのです。
これに伴い昭和20年代後半から始まった全国の流下式塩田すべてが廃止されました。
その背景には日本の工業化推進の為という理由がありました。
塩化ナトリウムは、多くの工業製品の基礎素材であるソーダ生産には欠かせない原料です。また、海に面した広大な塩田は工業用コンビナートの恰好の立地場所でした。
工業用地と工業素材の必要性、工業立国という国家の一大方針によって、塩が塩と呼べない化学物質に置き換わりました。
1985年(昭和60年)に日本専売公社が民営化(日本たばこ産業に移行)し、塩の販売も専売制から徐々に自由に販売できるようになりました。
1997年(平成9年)4月塩専売法は、国の自由化政策の一環として廃止され、塩事業法の制定のもと、国内で自由に塩を作れるようになりました。
2002年(平成14年)4月から塩の販売が自由化され海外の塩が輸入できるようになりました。
これが現在流通している塩がミネラルをほとんど含まない塩化ナトリウムの塊になった経緯です。塩が自由に製造販売できる今日でも、設備が揃っていて安く作れるイオン交換膜製法が主流になっています。
塩業近代化臨時措置法が施行されたことのツケが今でも残っていると言えます。
以上 引用元 https://www.kanzen-tenpiboshi-shio-japan.info/blog/2015/01/25/engyo-kindaika-rinjisochiho/より
法律と言うのは建て前の名前が付けられます、が、実態はそんなにきれいなものではないのです。
水俣病が発生したのです。
昭和31年(1956)、水俣市に住む少女が手足がしびれ、口がきけず、食事ができないなどの重い症状を訴え、チッソ水俣工場附属病院に入院する。これが水俣病の公式確認の最初である。
昭和34年、熊本大医学部水俣病研究班は「水俣病の原因物質は水銀化合物、特に有機水銀であろうと考えに至った」ことを報告。
昭和40年、新潟で有機水銀中毒と思われる患者が発生した。昭和42年、昭和電工の排水が原因であると厚生省に報告が入る。
昭和43年、厚生省及び科学技術庁は熊本で発生した水俣病についてはチッソ水俣工場の「アセトアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物」が原因であり、新潟水俣病については昭和電工の「アセトアルデヒド製造工程中に副生されたメチル水銀化合物う」がっ中毒発生の基盤であると発表した、
ここに至るまでの騒動に関して今回割愛せざるを得ないが、地域を真っ二つに割る大騒ぎだったことは間違いない。
チッソの水俣工場は昭和43年(1968)、アセトアルデヒドの生産は停止、昭和電工は昭和40年(1965)にはアセトアルデヒド生産工程は閉鎖されている。
さて、この両者がどうして有機水銀を排出したのかと言うと、水酸化ナトリウムを得る方法として電解ソーダ法の中の水銀法を使用していたからである。
水銀法とは「電解槽の床面に水銀を敷き、それに対向するように黒鉛陽極または金属陽極を配置し、その間に食塩水を通じて電解すると、陽極では塩素が発生し、陰極は0.2~0.5%のナトリウムを含むナトリウムアマルガムとなる。これを黒鉛粒子を充填(じゅうてん)した分解塔へ水とともに送り込むと、分解してカ性ソーダと水素が生成し水銀に戻る。」当時隔膜法と比べ高純度な水酸化ナトリウムが得られるということで主に本法が採用されていた。
水銀法による損失水銀量の問題は第 3 水俣病が発表されて以来,社会不安を激化させるに至り,政府は 1973(昭和 48)年,水銀法苛性ソーダ製造における水銀の損失を低減させるためのクローズドシステムの徹底と 1978 年までに水銀法を全て隔膜法に転換することを決めた。
ところが,隔膜法では苛性ソーダ中に NaCl が1% 程度混入しており,酸化力の強い塩素酸ソーダも多く,化学繊維,セロファン,無機薬品,調味料,有機化学,石油化学等には利用できないことがわかった(苛性ソーダ全消費量の約 25% に相当)。また,塩素ガスについても塩化ビニルの原料等,41% の分野で使用不能であった。更に,昭和 50 年における新設の隔膜法は既存の水銀法に比べ,約 4 割高くなることが見込まれた。しかしながら,苛性ソーダの製法転換,即ち,水銀法から隔膜法への転換を徹底させるため,通産省は隔膜法および水銀法両製品の等量交換並びに価格差決裁制度の設立によるコスト差額の上乗せを実施し,97.5 万トンの苛性ソーダに対し 38.7 億円を支出し,転換を促進した。政府は電解苛性ソーダの製法を水銀法から隔膜法へ転換することを決定したものの,隔膜法は水銀法にくらべて消費エネルギー及び品質の点でも劣っていた。水銀法を隔膜法に全て転換することは,産業の国際競争力維持の観点からも困難であり,イオン交換膜法等の革新技術の開発が望まれていた。
旭化成は昭和 50 年,イオン交換膜のガス付着防止,プラズマ溶射による陰極活性化を実現し,イオン交換膜法苛性ソーダ 4 万トン / 年の世界初の商業ベースを実現した。旭硝子も昭和 49 年,カルボン酸系イオン交換膜を合成し,昭和 58 年には高性能膜,低過電圧陰極,ゼロギャップ電解槽からなる省エネルギー型電解システムを開発した。旭化成,旭硝子およびトクヤマの 3 社の技術が海外でも広く使われるようになってきた。
要は何が言いたいかと言うと、有機水銀で大きな公害を引き起こした原因はソーダ電解にあったわけで、その解決策として苦労して開発したのがイオン交換膜法だったということです。
ところが、同じイオン交換膜法で苛性ソーダを作るのは何の問題もないが、なぜ従来の塩の製法をイオン交換膜方式に変えなくてはならないかの説明はとても不可解なことではないだろうか。
これにはチッソと言う会社を調べなくてはならない。実はWIKIを調べるまでもなくこの会社は日膣コンツェルンの中心に位置する会社だった。
日本窒素肥料の発展(wiki)
当初の石灰窒素事業は必ずしも順調ではなく、藤山が世界で初めて連続的生産方法を開発したものの、製品の窒素含有量が少ないなど技術的課題があった。工場で製造を指導していたのは藤山であったが、創業間もない企業として製品化を急いでいたこともあり、野口は藤山を押しのけ悪戦苦闘の末に最初の製品を作り上げた。しかしこのことで藤山は日本窒素肥料を去り、三井の資本で電気化学工業を設立し強力な競争相手となった。
1914年の第一次世界大戦の影響で、それまで日本市場の過半を占めていたイギリスからの硫安の輸入が途絶し、硫安の市場価格は3倍近くに急騰し、高値は1918年まで続いた。日本窒素肥料は国内原料と自家発電を利用していたため生産費の上昇がなく、大戦中に大きな利益を上げた。得られた資金を原資に事業拡大を考えていた野口は、戦争が終結したヨーロッパに1921年赴き、ドイツのグランツシュトフ社のビスコース人造絹糸技術、イタリアで最新のカザレー(イタリア語版)法アンモニア合成技術の導入を決めた。この二つの技術を実現するために、ベンベルグ絹糸製造の旭絹織物、アンモニア合成の延岡工場が建設された(いずれも現在の旭化成の前身)。人絹糸を処理するときに得られるニトロセルロースは綿火薬の原料であり、平和産業から戦時産業へ転換可能な製品である。またカザレー式アンモニア合成法の導入により、森矗昶の昭和肥料(現・昭和電工)と激しく競争しながら日窒は国内総生産高の多くを占めるにいたった。(以上WIKIより)
要はこの会社の本性は粉屋だったということ。粉とは火薬のことです。そうそう、プルトリウムも粉屋の仕事です。粉屋というと貧弱な商売を思い浮かべるかもですが、実はとんでもない。要は黒のカラスの本業、仕事場所なのです。
彼らの別名は戦争屋、あるいは死の商人です。この部分については〇〇宮もシオニストも手は出せません。
フランク帝国の時代、大王の妾腹の子の嫁ぎ先、カスティーリャとアラゴンに黒の権益を定めたわけで、のちにこれはスペインになる。そして大航海時代となりはるばる日本にもやってきたと。これが前田家と七福無尽につながり、北陸宮と旭将軍との話になります。
ちなみに緑は主に農業、資源、黄色は主に兵器。従って日本製原爆でおなじみの原爆の起爆装置は黄色、爆弾は黒の商材となります。
長々と書いてきましたが、粉屋のチッソが崩壊の危機に陥っていた場面で国を挙げて危機を救ったという話なのです。そして国民はその分高くてしょっぱいだけの食卓塩を使わざるを得なくなったということになります。まあ現在は自由に塩を選べるようになり塩の持つ魅力を再認識できるようになったのは喜ばしいことですが、国民の健康よりも粉屋のほうが大事だったことは忘れてはならないですね。
実は明後日東京へ行き第二回目の打ち合わせが予定されています。できれば今回の話の中で私が調べられなかったところ、知りえなかったところを聞くことができればいいなと思っています。
メソポタミア・ヴァレーの進捗状況を教えていただく予定です。また報告します。