さてと・・・コメント欄がとんでもないことになっています。まあ皆さんが楽しんでいただければそれはそれでいいと思っています。ただ、時間的にも精神的にもいただいたコメントへの返事は難しくなっています。申し訳ございません。(コメントはすべて読んでいます。)
ミスター氏ともう少し対話がしたかったのですが、この世界の方(諜報のという意味)はもともと口数が少なくキーワードのみのやり取りに終始します。こちらにそれなりの素養が備わっていないと「ふん、その程度か・・・」となってしまいます。まあ、私の力不足ということでしょう。
まあそれでも「義和団の乱を調べろ」ということと、「倭人とは?天皇をスメラ?スメル族!崑崙山クル族!大本教グループも崑崙山を重視していた!十王戦争!」というワードに注目しました。
ただ、前回も触れましたようにカフェの店長が退職したことによる影響で、私の仕事内容の変更を余儀なくされ、研究する時間が十分に取れない状況です。仕事優先ですから‥‥仕方がないですね。
義和団の乱に関しては、以前考察した明治維新での世界情勢とそれほど変わりは無いのでそれほど困難ではないと思いますが、要は世界を動かす支配者の派閥が一体いくつあるのかということになるのかな・・・。
まあシオニスト、イエズス会、東インド会社、〇〇宮、フリーメーソンと、ここまでは簡単に思いつきますが、他がなかなかですね。そこにツランとか女真とか、スメル族?スメル族って要はシュメールですよね。
私はメソポタミアの文明をウバイドから始めましたが、なぜかシュメールは触れてきませんでした。S氏はメソポタミア文明はシュメールではないと言われたからです。私はその時点でシュメールを研究する必要はないのだと考えました。いま思えばもう少し突っ込む必要がありましたね。
ではクル族とは?インド・アーリア人の一部族の名称で、十王戦争に勝利したバラタ族は、インド・アーリア人の諸部族における覇権を確立した。そして次第に、十王戦争において戦った相手であるプール族と融合し、支配階層を形成して、クル族と呼ばれるようになったという。これ以上はマハーバーラタの研究が必要で今はとても対応できません。十王戦争・・・うーん、ちょっと面白そうです。
天山山脈と崑崙山脈に囲まれたホータン近辺がスメル民族発祥の地と言われている。「シュメール民族の謎」より引用すると「高楠順次郎は仏典の研究から、メソポタミアのシュメール民族と、インド文明を築いたアーリア民族、あるいはポリネシア、メラネシア、マレーシアのマライ族、インドネシア太平洋海洋民族のルーツはただ一つ、中央アジアのコンロンの大平原のコタン文明を築いたシュメール族にあるとした。また、釈迦の出自も「世界最の知識民族であったシュメール族」王家の子孫であるとした。先祖に須彌(スメル)王が居たとして、仏典「仏本行集経」から系図も示している。」・・・と。ただし、「岩田明、太田龍、中丸薫などのシュメール民族中央アジア起源説の根拠としているようである。」とあるようにこの説が正しいという確証は得られない、ていうか、このあたりの考え方がドイツ民族と日本に共通する遺伝子があるという思想の元になっていて、ハウス・ホーファーが那智の滝で学びナチスドイツのアーリア至上主義が完成したという。まるで紅卍の世界に入って行くようでやや気色悪いのですが仕方がない。
このホータンを起点とし、世界にアーリア人が散らばったという考え方は研究する価値はある。
まあ、もう少し勉強ですね。
さて、先日S氏と少しだけ話をしたのですが、「マヨ君に絶対的に欠けているものがある。それはデーン人だ。バルト海沿岸やスウェーデンなどの北欧諸国にはそれぞれたくさんの神話があるのだよ。ケルト文化をもっと勉強しなさい。」と。ドルイド神官とはいったい何者かをもっと知りなさいということです。
要は世界の歴史は紀元前1万年とも5000年ともいわれますが、いずれも氷河期ですべてが滅び、新しい文明が始まって現在に至っているという考え方で、そうではなく、少数ではあるがその氷河期を生き延び、現在の文明に何らかの影響を与えた民族があるのではないかと言っている。それがノアの箱舟の意味ではないか?あるいはアトランティック大陸があったというような考え方か?
具体的には聖書に書かれている中のヤペテをもっと調べろという。私たちはもっぱらセム、ハム人の研究が主でヤペテ系はあまり問題にしていなかったな。
WIKIによると
『創世記』第10章の系譜によるとヤペテの息子はゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メシェク、ティラスといい、それぞれが以下の地域の民族の始祖とされた。
ゴメル→ガラテア
マゴグ→スキタイ
マダイ→メードイ
ヤワン→イオニア・ギリシャ
メシェク→カッパドキア(ここの町にマザカというものがありヨセフスはこれをメシェクが訛ったものとしている)
ティラス→トラキア
これらのうちゴメルとヤワンの息子はさらに植民を広げ、以下の人々の始祖とされた。
とある。
よく考えるとこれはほぼアーリアのことではないか。あるいは正教側というべきか・・・・。
聖書も史記も記紀も物語であり歴史書と考えていない。しかし、支配者たちが真実を隠蔽しながらも何らかの真実を後世に伝えるために残したものである。つまり無視できるものではない。
藤原4家が問題となっていたが、ノアの子供も同様で合成家系だと考えている。
天武や天智が新羅か百済かの論議もあるが、それ以前に平安京以前の歴史が正しいといえるのだろうか。藤原京から平城京、そのあと都は何度か移転している。
WIKIによれば
斉明天皇元年(655年)冬、難波京(難波長柄豊碕宮)から飛鳥川原宮)へ遷都。
斉明天皇2年(656年)、飛鳥川原宮から岡本宮(後飛鳥岡本宮)へ遷都。
斉明天皇7年(661年)、後飛鳥岡本宮)から朝倉橘広庭宮へ遷都。
天智天皇6年(667年)、朝倉橘広庭宮から近江大津宮へ遷都。
天武天皇元年(672年)、近江宮から飛鳥浄御原宮へ遷都。
持統天皇8年(694年)、飛鳥浄御原宮から藤原宮へ遷都。
和銅3年(710年)、藤原京から平城京へ遷都。
天平12年(740年)、平城京から恭仁京へ遷都。
天平15年(743年)、恭仁京から紫香楽宮へ遷都。
天平17年(745年)、紫香楽宮から平城京へ還都。
延暦3年(784年)、平城京から長岡京へ遷都。
延暦13年(794年)、長岡京から平安京(京都)へ遷都。
S氏によれば遷都するというのはそれだけの王朝があったと考えるべきだという。
つまり大化の改新645年から794年平安京まで日本は大荒れだったということです。
百済、新羅、高句麗の三国が争ったという歴史が本当に韓半島で起きたことなのか?白村江の戦いが本当は大阪湾で起こった争いじゃなかったのか?
まだまだ私の妄想は止まることはない。あーあ、時間が欲しい!