私のだらしな日記

「更科日記」ならぬ、私の〝だらしな〟日記。(^^;)
日々のどーでもいい事を、だらだらと綴っていきます。

自分をあんまり“悪人”だと思っていると

2010年03月08日 | 日々つつがなし
下記の「地球のカルマ2」との記事にも関連することなのですが、
あまり「自責の念」にばかり囚われていると、
自分で自分を罰してしまうようになると思うのです。

自分を“悪人”と思う人がいるのだろうか?
多かれ少なかれ、人は自分を“善人”と思わなければ、
生きていけないのではないのだろうか?

と思われる方が多いと思うのですが、
確かに、基本的には、人は、自分のことを“善人”だと思っています。

そして、それで間違いないと思うのですが、
それと同じくらいに、自分のことをまた“責めて”もいるのです。

ちょっとした意見の食い違いや、ちょっとした言い間違い、
聞き違い、などによる他人との相違やズレ、葛藤・・・
そんなものでも、すぐに反応して、

「ああ・・・自分はダメだ~」

とか、

「相手を怒らせてしまう、自分は間違ってるのでは・・・?」

とか、

はたまた、上手くいっている、いってないに関わらず、

「こんな自分でいいのだろうか・・・?」

なんてことを感じたりします。

つまり、人はほっておくと、すぐに、
自分を疑ったり、また、自分を責めたり、貶めたりする傾向が
あるのだということです。

この自分を責めることが、
積もり積もってくると、

「どうせ俺は、誰からも理解されないんだから、とことん悪くなってやるんだ」
みたいな、自分を自分で“罰”してしまうことにつながっていくと思うのです。


一見、いじわるに見える人でも、
意識している、していないに関わらず、

実はそういう自分を“悪”と決め付けて、
自分を罰しているのです。


例えば、誰かにいじわるをしてしまったとします。

それは故意か偶然かは分かりません。
でも、してしまった・・・とします。

すると、表面ではそんなこと気にしていないようにしても、
心の中では、

そういう自分が嫌なのです。
そういう自分を許せないのです。
(他人にそんなことを言ったりしたりする自分が・・・)


何故なら、人は基本的に、“善人”だからです。

すると、無意識的に、そんなことをする自分を“罰”してしまうのです。

(本人はそんなこと露とも思ってはいませんよ、もちろん・・・)

けれど、なぜか“罰”してしまうのです。


私は昔、自分をいじめていた人が、その後、
どうなったのかを知って、ちょっと・・・
震撼としたことを覚えています。

その方は、私を“いじめる”役を買ったことで、
自分を“いじわる”な人と規定してしまったのでしょう。

その後、私以外の人たちにも“いじわる”をしてしまい、
みんなから嫌われ、仲間外れになってしまいました。

そうして、プライベートでも、他人から恨まれ、
嫌がらせを受けたり、身内にも不幸があったりと、
ことごとく上手くいかなくなってしまったのです。

これはけして、私がその方を呪ったりしたわけではありませんよ
(けして、そのようなことは・・・)。

ただ人は、やっぱり基本的には“いい人”で、
自分が間違ったとされることをすると、
そういう自分が許せなくなってしまうもののようです。


この方も、本当は私との行き違いを、ただの行き違いと
認識していればこういうことにはならなかったのです。

そんなことよくあることさ
これから気をつけよう

でよかったのです。

けれど、結局は「こんなことをする自分は自分じゃない」と
エスカレートさせてしまい、自分をある意味
“罰”してしまったのではないかと思います。


なので、少々の失敗や行き違いを
大げさに責めることはないのです。

そんなこと、本当によくあることです。

ある意味、自分を責めることは簡単で、
自分を責めずに、

“これでいいんだ”

と思うことの方が難しいのです。

でも、“自分はこれでいい”と
常に肯定をしてあげて、

“自分だって、失敗することもあるんだ”

と、軽く考えておいた方が
生きることは、ラクチンなんだろうなー、

と、そんなことを思いました。



とにかく“自分を肯定”ですね。

ひたすら・・・。

どんな自分でも。


そんなことを考えました。



☆それでは今日もよい一日でありますように。


小さなホン屋パモン堂










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする