夕べ、ふと思い出して「聖書」を開いてみた。
調べ物をするために、読んだのだが、
昔、自分が赤線をして、チェックした箇所に目がいった。
そこはどういうところかと言うと、
人はちゃんと生きていないと、
最後の審判のときに、“罰”が下る
というような所だった。
その時は、ふ~ん・・・と思ったのだけれど、
一晩あけてみて思うことは、
やはり私たちは、この「罰が下る」という
言葉に脅されて生きているんだなあ~・・・と
思ったことだった。
これはたまたま「聖書」を読んだから、
そう思っただけで、
仏教でも、イスラム教でも、
読んだことはないけれど、
似たようなことが書いてあるのではないかと思った。
(すんません・・・あくまで推測)
何か“神”が人間を“罰”するという
ことを教える宗教が多い気がします。
私はあまり好きではないのですが、
「業」とか「原罪」とか、
なんだかこんなおどろおどろしい言葉で、
人間を縛っている気がするのです。
これは例えていえば、「人類の病」とでも言いましょうか、
何かこの“脅し”で人を支配しているような気がするんですよね。
“あなたには、生まれ持って悪い性質があるので、
そこを直さなければ、神さまから罰が下りますよ”
とか、
“あの人は業が深いので、酷い目に遭っているんだ”
とか、
おいおい、勝手に決め付けないで欲しいよォ~なんて
思うことが、今までは平然とまことしやかに言われていたんだなあ~
と思ってしまいました。
(みんながそれを信じていたので、―共通の認識としてあったので―
“人類の病”となってしまったのでしょう)
どうも、私たちは、事あるごとに、
自分を
“罰しなさい”“罰しなさい”
と言われているようです。
でも本当にそうなのか?
というところから検証していかなければなりませんよね。
神さまは本当にそんな地獄の閻魔大王のような審判をするのか、
とか
生まれながらにして、罪があるって・・・どういうこと?
業って何?
などと、鵜呑みにしないで、考えていかなければなりませんよね。
そんなことを思いました。
反対に、“罰が下る”と思わなければ、
人間ってちゃんと生きてはいけないのか?
という疑問も生まれます。
(そんなに人間ってダメなの?)
“罰”が下ろうと下るまいと、
ちゃんと生きていけるのが、
人間という生き物ではないのかな?
と思ってしまいました。
もう“脅し”はいらないですよね。
なんだかそんな時代は終わった気がしました。
☆それでは今日もよい一日でありますように。
小さなホン屋パモン堂