1からの続き
うちのおばはん、以前にも別のところでこの話を書いてるんだけど、あれはどうなっちゃったのかしら。いやいや、そういえばカンガス神父様だって、うちのおばはんの話を聞いて、あなたは自分を実際以上に大きく見せようとしているとかってまるで見当はずれなことを言って、あの人の話をちゃんと聞こうとしなかったのよねえ。物事には原因があって結果があるのよ。召しだしは次の代に現れるっておっしゃったけど、あの人のおうちはキリスト教じゃないけど、お父さんの親はお坊さんだったのが今のあの人にまでつながってきてるんじゃないのかなあ。お父さんがへんてこりんだったから、あの人もへんてこりんなのよ。
うちのおばはんのお父さんてさ、仕事はかなり優秀なほうだったんじゃないの、ちっちゃな印刷会社の営業だったけど、ホンダの宣伝広告印刷を一手に引き受けられたのはうちのおばはんのおとうさんの働き無しにはできなかった筈よ。だけどそんな人が反面まるで世間知らずで、何もかも会社任せにして、退職後に手に入ったのは国民年金だけだったんだから子供だってびっくりよ。
だけど、子供のほうも、親の子だからやってることは親と同じで、20数年もわけのわからない状況に追いやられて生活保護なんていうなさけないことになっちゃってるのよね。親子で人を信じすぎて失敗してるんだもの、あきれちゃうわ。
世間的には親子ともどっちかっていうと間抜けかもしれないけど、良くも悪くもこの親だったから子供もこうなったんだわ。普通の家庭の普通のお父さん達は自分の子供がちっちゃいときから「闇の夜に 鳴かぬ烏の声きけば 生まれぬさきの 父母ぞこいしき」なんて禅の道歌を覚えこませたりする? しないでしょう。ところがあの人のお父さんは、お正月って言えば家族がそろったところで、「門松や冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」って毎年必ず一席ぶってから始めるような人だったのよ。子供に禅の道歌を教え込んで意味がわかるかって聞く人だったのよ。
だからいつだってうちのおばはんは、この道歌を小さいときから心の中で繰り返し、考えながら大きくなったの。それでプロテスタントの教会に行っていたとき、礼拝の時の賛美歌の中の、すべてのものの造り主である神様を褒め称えよって言う意味の歌の詩を聞いて、あの人もハッとして、そうか闇の夜に鳴かぬ烏の声って、生まれる前は何にもなかったんだ、無だったんだ。自分も無から造られて存在を与えられたんだって思い当たったのよ。まあ、でもやっぱりへんてこりん親子だったのね。
小さいときの環境がお寺やお墓の多い、仏教のだけじゃなくて、カトリック市川教会の墓地も幼友達の家の近くで遊びに行く途中の道筋にあったのよ。それで親がそんなだったら物思う子供が出来上がって当然でしょう。あんまり一般的じゃないかもしれないけどさ。
うちのおばはんは一朝一夕に出来上がったわけじゃなくて、お父さんの代、お父さんの親の代からの流れがあって、ああいうへんてこりんなおばはんができたのよね。いいたくはないけど、あの人、自分を実際以上に見せようなんて全然してないわよ。天然のへんてこりんなのよ。
これ以上言ってると話がこんがらかっちゃうから止めとくわね。だいぶ長くなっちゃったから今日はこれでおしまい。
ほんじゃまたね。