心の味をいひ取らんと、数日腸(はらわた)をしぼる
三冊子にある。後半部分の推敲という作業は言語芸術にはよくあることで、写真でもテーブルフォト
ではありうるが、スナップや自然写真などでは出会いで撮るのが普通だ。
写真にとって重要なのは前半部分だ。写実を唱導した正岡子規は芭蕉のこのような態度を好まなかったが、
その後の俳句に駄作が量産されたことは、多くの俳人が認めている。
芭蕉と子規の違いははっきりしている。芭蕉の目は日本の伝統に向いていたのに対し、子規は西洋の自然
主義などに向いていた。日本で初めて野球をやったというのも、それを示している。
あるがままに写すだけでは芸術にならないのは、写真でも同じ。写真は写心。
芭蕉は古今和歌集の仮名序にある「和歌は人の心を種として…」という言葉に従っただけだった。
二年前の撮影。今年の市展に出品。
ペンタックス645Ⅱ
80-150mm
べルビア100
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