死生学について調べているときに、関西学院大学の藤井美和先生の記事を見つけました。
先生が行っている「死の疑似体験」の授業がとても興味深かったので、ここで紹介したいと思います。
大切なものは何か、ときに考えることで生き方は違ってきます。
*
いかに周囲に支えられてきたか、死の疑似体験で気づきます。
●おさらい
生まれ、死ぬ場所が自宅から病院に移り、核家族化も進んだため、人は生と死を身近に感じにくくなりました。でも、死と向き合うことは大切です。死は生の一部。どう死ぬかを考えることは、どう生きるかを考えることなのです。
人生において本当に大切なものはなにか。講義では、死を疑似体験することで考えてもらっています。
形のある大切なもの。大切な活動。大切な人。形のない大切なもの。この4領域から三つずつ選んで、12枚の紙に書くことから始めます。
このときに、多くの人がふだん何を大切にしていたのか考えていなかったことに気づきます。
それから、21歳の学生ががんに冒され、亡くなっていく過程を疑似体験します。病の経過をつづった日記を私が読みあげるなかで、何をあきらめるのかを決めて、順番にその紙を破っていくのです。
入院して検査が続くときに3枚、手術するときに3枚。たいていは、形あるものから消えます。さらに、自身の病気ががんであるとわかって3枚破る。
そして、最期を悟ったときに2枚を破ります。
本当に大切なものは何だったのか。何のために生きてきたのか。手放す過程でこうした問いを自らに突きつけ、その答えを求めて苦しむのです。これが、自分という存在の根底を揺るがす「スピリチュアル・ペイン」、つまりたましいの痛みなのです。
残った1枚は、多くが「母」や「愛」です。それを持って目を閉じ、私の「さようなら」の言葉とともに破ります。
*
死の疑似体験によって学生は変わります。当たり前の生活がどれほど大切なものだったのか。いかに多くの人に支えられてきたか。死に直面して苦しんでいる人になんと安易な言葉をかけていたか。そうしたことに気づくからでしょう。
講義後、死を前にして伝えたかったことを書いてもらいます。多くは、「ここまで育ててくれてありがとう」といった感謝、「天国から応援しているよ」といった残される人への思いやりです。
死に直面した人の切実な痛みと向き合える本もあります。米国の精神科医キューブラー・ロス博士(04年没)の「死ぬ瞬間」=キーワード。200人以上の末期患者にインタビューした画期的な内容です。
たましいの痛みに苦しむなかで、心の支えになるのは、自身を取り巻く「関係性」です。周りの人や自分の信じるものにどれだけ支えられているかということです。
死を疑似体験した学生の感想にもそれが表れています。「たくさんのものや活動を手放しましたが、そばにいてくれる大切な人だけは失いたくありませんでした」「人間を超える何かがあることが安らぎを与えてくれました」。関係性は人に限らず、自然や神といった大きな存在との関係もあるのです。
*
死を受容できるかは、関係性によるところが大きい。身をゆだねられる人や大きな存在に命を手渡して逝くことができたら、死はその人にとって意味のあるものとなるでしょう。
死を前にしたとき、本当に大切なものはなにか。ときに立ち止まって考えることで、生き方は違ってくるのです。
上記の文は先生の記事のシリーズ(2)の部分です。
その他は
死生学(1)
http://www.asahi.com/edu/university/kougi/TKY200902060181.html
死生学(3)
http://www.asahi.com/edu/university/kougi/TKY200902200156.html
先生が(1)で述べられていることで「多くの人は死に直面したとき初めて「生と死」について深く考えていなかったことに気づき、大きく動揺します。」という文を読んで、私は本当にその通りだと思いました。
自分もそうですし、亡くなった母は死ぬ前日くらいに、妹に「死んだらどうなるの?」と訊ねたそうです。生前強く魂の存在を信じていた母ですら。
信じていたとしても、死というものを自分なりにどのようなものだ、と考える作業ができなかったのかもしれません。
私はそれを2人称の死(身近な存在の死)で考えることになりました。
そして、先生と同様に思うことは、死について考えることは、どう生きるかにもつながってくることです。
先生の授業のような、死に近づく前に、自らの死のイメージを考える作業をすることは、とても大切なことだと実感しています。
先生が行っている「死の疑似体験」の授業がとても興味深かったので、ここで紹介したいと思います。
大切なものは何か、ときに考えることで生き方は違ってきます。
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いかに周囲に支えられてきたか、死の疑似体験で気づきます。
●おさらい
生まれ、死ぬ場所が自宅から病院に移り、核家族化も進んだため、人は生と死を身近に感じにくくなりました。でも、死と向き合うことは大切です。死は生の一部。どう死ぬかを考えることは、どう生きるかを考えることなのです。
人生において本当に大切なものはなにか。講義では、死を疑似体験することで考えてもらっています。
形のある大切なもの。大切な活動。大切な人。形のない大切なもの。この4領域から三つずつ選んで、12枚の紙に書くことから始めます。
このときに、多くの人がふだん何を大切にしていたのか考えていなかったことに気づきます。
それから、21歳の学生ががんに冒され、亡くなっていく過程を疑似体験します。病の経過をつづった日記を私が読みあげるなかで、何をあきらめるのかを決めて、順番にその紙を破っていくのです。
入院して検査が続くときに3枚、手術するときに3枚。たいていは、形あるものから消えます。さらに、自身の病気ががんであるとわかって3枚破る。
そして、最期を悟ったときに2枚を破ります。
本当に大切なものは何だったのか。何のために生きてきたのか。手放す過程でこうした問いを自らに突きつけ、その答えを求めて苦しむのです。これが、自分という存在の根底を揺るがす「スピリチュアル・ペイン」、つまりたましいの痛みなのです。
残った1枚は、多くが「母」や「愛」です。それを持って目を閉じ、私の「さようなら」の言葉とともに破ります。
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死の疑似体験によって学生は変わります。当たり前の生活がどれほど大切なものだったのか。いかに多くの人に支えられてきたか。死に直面して苦しんでいる人になんと安易な言葉をかけていたか。そうしたことに気づくからでしょう。
講義後、死を前にして伝えたかったことを書いてもらいます。多くは、「ここまで育ててくれてありがとう」といった感謝、「天国から応援しているよ」といった残される人への思いやりです。
死に直面した人の切実な痛みと向き合える本もあります。米国の精神科医キューブラー・ロス博士(04年没)の「死ぬ瞬間」=キーワード。200人以上の末期患者にインタビューした画期的な内容です。
たましいの痛みに苦しむなかで、心の支えになるのは、自身を取り巻く「関係性」です。周りの人や自分の信じるものにどれだけ支えられているかということです。
死を疑似体験した学生の感想にもそれが表れています。「たくさんのものや活動を手放しましたが、そばにいてくれる大切な人だけは失いたくありませんでした」「人間を超える何かがあることが安らぎを与えてくれました」。関係性は人に限らず、自然や神といった大きな存在との関係もあるのです。
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死を受容できるかは、関係性によるところが大きい。身をゆだねられる人や大きな存在に命を手渡して逝くことができたら、死はその人にとって意味のあるものとなるでしょう。
死を前にしたとき、本当に大切なものはなにか。ときに立ち止まって考えることで、生き方は違ってくるのです。
上記の文は先生の記事のシリーズ(2)の部分です。
その他は
死生学(1)
http://www.asahi.com/edu/university/kougi/TKY200902060181.html
死生学(3)
http://www.asahi.com/edu/university/kougi/TKY200902200156.html
先生が(1)で述べられていることで「多くの人は死に直面したとき初めて「生と死」について深く考えていなかったことに気づき、大きく動揺します。」という文を読んで、私は本当にその通りだと思いました。
自分もそうですし、亡くなった母は死ぬ前日くらいに、妹に「死んだらどうなるの?」と訊ねたそうです。生前強く魂の存在を信じていた母ですら。
信じていたとしても、死というものを自分なりにどのようなものだ、と考える作業ができなかったのかもしれません。
私はそれを2人称の死(身近な存在の死)で考えることになりました。
そして、先生と同様に思うことは、死について考えることは、どう生きるかにもつながってくることです。
先生の授業のような、死に近づく前に、自らの死のイメージを考える作業をすることは、とても大切なことだと実感しています。