現場主義の評論、山根貞男というひとつの手法。

2022-08-02 04:50:49 | よのなか

映画の評論をするために、

その映画の撮影現場に足を運ぶ。

 

映画評論とは、スクリーンに投影された光と陰、

静動あわせ躍動する俳優たちの肉体と精神の運動、

俳優たちの発するセリフと息づかい、

劇場に響くサウンド、奏でる音楽、

時として静かな、時として激しいフレームの積み重ね、

すべてのエモーショナルな集大成を、

時代や、空気感をも受け止めて、

自分を通して読者へ、伝え、投げかける、

それが、映画評論というものだと、

勝手に思い込んでいた。

その映画の視点には、

縦軸には、監督、俳優のスッタフたちの過去の作品や生い立ち、

現場を取り巻くスタッフ、俳優の組合せの

横軸も含まれることにもなるでしょう。

言い切れていないでしょうが、それが、映画の評論をすること。

稚拙ながらに、そうとらえていた。

 

しかし、そのファクターのひとつに、

現場の空気というか、熱気というか、

出来上がったものになる前の素材を

評論するための材料に、取り込んだ。

 

それが、山根貞男の現場主義。

 

いまでは、普通になっているが、

グルメ番組の取材で、

名だたる料理人自体や、出来上がった料理にだけ光をあてるのではなく、

その素材の生産地を訪ね、

生産者のこだわりや主張を取材するように。

言い得て、いないか。

 

撮影現場には、技術スタッフ、各技術パートの機材が、

雑然と、実は必然と、

そこには熱を帯び、

その熱は、物理的な照明器具などの熱や、そこに滞留するスタッフの熱がある。

もちろん、スタッフには俳優人も含まれる。

その戦場の中で、映画は観て知っているが、撮影現場の素人が、

どこが、いちばん邪魔にならなく演技者の側に寄れるのか、

また、カメラワークも捉えられる場所をと、そう簡単には見つけられない。

 

そこをさぐるプロセスもふくめて、評論にしたのが、

山根貞男という評論家。

 

ボクは、駆け出しの制作進行として、現場を右往左往し、

無知で素人同然で、汗と、涙と、恥ばかりかき、

無視され、怒鳴られ、へとへとの日々だった。

 

うんざりな嫌気と疲労感で爆発しようとしていた特に、

山根貞男さんの著書に出会う。

 

以来、著書を追っかけて、

それこそ、エモーショナルに昂り、自分を鼓舞して慰撫していた。

 

先日、上野昂志さんの出版記念イベントのトーク会が、

紀伊國屋書店新宿本店の2階フロアーで開かれた。

そこで、生身の山根貞男さんご本人にはじめてお会いすることができた。

 

ボクは、すでに、撮影の現場を去り、久しく、

流れ者のように、様々な職を、転々としている、いまだ。

 

トーク会だけでも満足していたが、

小柄で、髭を生やし、つるっぱげで、眼鏡をはめた、

こざっぱりとしたうすいスカイブルーのシャツの、

山根貞男さんご本人が、会場かたわらで、

真摯にどなたかボクより若いであろう男性と話していらっしゃった。

 

若くひ弱で、いまにも折れてしまいそうなボクを支えてくれ、勇気をくれ、

現場の楽しみを教えてくれた恩人が目の前にいる。

お礼だけでも伝えたいと、先客の話が終わるのを傍で待っていると、

山根貞男さんは、ボクに気づいてくれ、

さっき会場にいましたね、顔、覚えてますよと、

やさしく、声をかけてくださった。

 

先客に割り込んでしまったボクは、

手短に、以前、撮影現場で働いており、

その際、勇気をもらって励まされました、と言って、握手を求めた。

このコロナのご時世に握手!?と思われたのか、

のけぞり、びっくりされたが、

差出したボクの手を握ってくれた。

感謝を伝えるのが精一杯で逃げるようにその場を立ち去った。

紀伊國屋書店の階段が、

曇ってぼやけて、脚を踏み外しそうになりながら。

 

まだ、まだ、終わっていない、

楽しみは、これからだ、と思った。