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授業で車いすバスケットボールを体験する武庫川女子大短期大学部(兵庫県西宮市)健康・スポーツ学科2年の前野瑠莉子さん(20)。大震災一週間前の1月10日に生まれた。
1995年1月17日午前5時46分に発生した阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)。マグニチュード7.3の直下型地震により、6400人を超える死者と4万3000人の負傷者、全壊家屋10万棟以上という戦後最大級の被害をもたらした。
阪神大震災前から残る建物と10年ぶりに点灯した三ツ星ベルトの広告塔。20年前にタイムスリップしたような町並みが甦った=14日午後6時43分、神戸市長田区(頼光和弘撮影)
とうみょうの森プロジェクト(齋田隆朗代表)の主催。震災犠牲者を追悼する思いと、子どもたちの願いや希望を灯明に託すイベントとして企画した。
「今では子どもたちの成長が素直に喜べる」。盈進中学・高校ヒューマンライツ部の生徒たちと語らう加藤りつこさん。その手には貴光さんの写真があった。前列左が箱田麻実さん、右が小川千尋さん=広島県福山市で、大西岳彦撮影
家族を亡くした悲嘆、困難で助け合う人のぬくもり、未来への希望――。阪神大震災について書かれた手記を朗読する会が10日、神戸市中央区で開かれた。
昨年12月27日、写真スタジオで、成人の記念撮影のため人生初めての化粧をして振り袖を着た大川恵梨さん(20)。鏡に映る自分を見て「はずかしい」と照れていたが、満面の笑顔で撮影に応じた。
生後7カ月の大川恵梨さん=1995年6月14日撮影
「生んでくれてありがとう」 “最後の震災遺児” 浦田楓香さんが母への手紙を朗読へ
成人式で袖を通す晴れ着の前で祖母の浦田明美さん(右)と話す楓香さん=神戸市灘区(頼光和弘撮影)
阪神大震災で母親を失った女性が12日、成人式を迎える。神戸市灘区の短大2年、浦田楓香(ふうか)さん(20)。生後4カ月で母、智美さん=当時(19)=を亡くし、祖母の明美さん(66)に育てられた。母の年齢に追いついた昨年から、東日本大震災の遺児支援に携わる。「今度は私が子供たちを笑顔にしたい」。成人式前日の11日に開かれる震災遺児らのケア施設「神戸レインボーハウス」(同市東灘区)の追悼式では、代表で亡き母への手紙を朗読し、自身の成長と被災地支援への決意を報告する。(有年由貴子)
智美さんの母子手帳には楓香さんの成長の記録とともにメモが記されている。
「4カ月と2日 たんこぶ痛いよね。ごめんね。ふーちゃん」。メモはこう記した平成7年1月9日を最後に途切れた。
その8日後、智美さんは震災で全壊した同市兵庫区の文化住宅のはりの下敷きになり、亡くなった。同月25日に20歳の誕生日を迎えるはずだった。
助け出された楓香さんは明美さん夫婦が養女として引き取った。「この子が20歳になるまで頑張ろう」。明美さんはそう誓い、苦労しながら懸命に育てた。
「智ちゃん」の真実
楓香さんが真実を知ったのは小学3年のとき。「震災で死んだ姉」と教えられた智美さんが母で、「私はほんまはおばあちゃんなんや」と明美さんから打ち明けられた。実感がわかなかった。赤ちゃんのときの自分と智美さんが笑い合っている写真を見ても「何だか不思議な気持ち」。だから驚くこともなく、「そのままでいい。オカンはオカンや」と答えた。
智美さんの年齢に追いついた昨年1月、神戸レインボーハウスの追悼式で、亡き母にあてたメッセージを初めて読んだ。「この家族でいられて本当に幸せ」と明美さんらへの感謝の言葉とともに、母への思いが一気にあふれた。母が迎えられなかった20歳を「大きな通過点」とし、「この年を乗り越えられたら、何でもできるような気がする」と結んだ。
同じ遺児を笑顔に
昨年春、東日本大震災の遺児らをケアする「仙台レインボーハウス」(仙台市)の完成式典に出席した。これを機に、東日本の遺児や遺族らとの交流が始まり、被災各地で講演活動を行うように。震災の記憶がない自分に話ができるか迷ったが、震災遺児の姿がかつての自分に重なった。「私の話が東北の人たちの力になれるんじゃないか」。そう思い、「震災を生き抜いた命を大切にしてください」と伝え続けている。
短大卒業後も震災遺児支援は続けるつもりだ。「震災がなければ違う人生、違う私だった。震災があり、周りの人々が私をここまで育ててくれた。同じ境遇の子供たちを少しでも笑顔にしたい」とほほ笑む。
そんな“娘”の姿に、明美さんは「楓香が子供の頃からずっと『大きくなったら、次は支援する側になってほしい』と願って育ててきた。少しは人の痛みが分かる子に近づけたのかな」と目を細める。
11日の追悼式で、楓香さんは再びあいさつに立つ。「周りの人に恵まれて、こんなに元気に育ったよ。私を産んでくれてありがとう。智ちゃん、『大きくなったね。頑張ってるね』ってほめてくれるかな」
阪神大震災20年:母思う、20歳の振り袖 成人式で着られないまま、犠牲に
阪神大震災で母(当時19歳)を亡くした大阪芸術大短大2年、浦田楓香(ふうか)さん(20)=神戸市灘区=が12日、成人式を迎えた。当時、生後4カ月で震災の記憶はないが、神戸の街の復興とも重なる自身の歩みを、東日本大震災の被災地で伝えていきたいと考えている。【宮嶋梓帆、神足俊輔】
震災で神戸市兵庫区のアパートが全壊し、母の森智美さんは、はりの下敷きになった。母は20歳の誕生日を8日後に控えていた。父も大けがをした。母方の祖母の浦田明美さん(66)が楓香さんを引き取って育てた。
祖母には、楓香さんと母の姿が重なって見え、アルバムには七五三で同じ着物を着た2人の写真を並べた。
高校を中退していた母は、祖父母とわだかまりがあった。20年前の成人の日、母は久しぶりに実家に姿を見せた。祖母が用意していた赤い振り袖は「母乳で汚れるかも」と言って着なかったという。
祖母は、母親がいないと寂しいだろうと思い、自分が母親で、亡くなった母を「姉のともちゃん」と言って育てた。事実を伝えられたのは楓香さんが小学3年の時で、すぐに理解できなかった。母の写真を見ても「お母さん」と呼べなかった。
思いが変わったのは、中学生のころだった。母の母子手帳を見つけた。手書きで「風邪を引かせちゃってごめんね」「早く笑顔が見たいよ」とあった。「ちゃんとお母さんしてたんや」と、うれしくなった。備考欄に名前の候補が七つ並び、「楓香」の横に小さな「〇」印。胸が熱くなった。
2011年の東日本大震災以降、楓香さんは宮城県や岩手県を何度も訪れ、同じ境遇の遺児たちと遊び、話し相手になっている。やんちゃな子を見ると、昔の自分と重なる。
子供たちには「記憶はないけれど、いろんな人に支えられて大きくなった」と話している。保護者から「ありがとう」と泣いて喜ばれることもあり、「私でも役に立てることがあることが分かった。母が残してくれた使命なんかな」と感じる。
この日、楓香さんは、母が着ずに残した赤い振り袖に初めて袖を通した。アルバムには、20年前の母の写真の横に、自分の晴れ姿を並べるつもりだ。「もう結婚して子供を産んでたなんて、想像でけへん。ともちゃん、産んでくれて本当にありがとう」。赤ちゃんだった自分を抱く母の写真をかばんに入れ、神戸市兵庫区であった市主催の成人式に出席した。
式典には、震災前後に生まれた世代約9800人が参加。復興する街の様子をスクリーンに映し出し、犠牲者らに黙とうした。新成人代表8人が「はたちの誓い」として「神戸の復興とともに成長してきた。これからも決して忘れません」と語った。
2015年01月13日 00時00分 毎日新聞
阪神大震災:亡き妻の値段表で20年据え置き すし店
2015年1月13日 毎日新聞
灘寿司店主の上野数好さん(手前)は、阪神大震災で亡くなった妻の美智子さんが作った手書きの値段表を今もそのまま使っている。「字がうまいでしょ」とほほ笑んだ
阪神大震災で妻の美智子さん(当時47歳)を亡くした神戸市東灘区のすし店主、上野数好(かずよし)さん(71)はこの20年間、すしの値段を据え置いている。店の壁に張られた値段表は、美智子さんが生前に手書きした。「これだけは外したくないんや。ええ嫁さんやった」。大将として常連客と威勢良く話すが、セピア色に変色した画用紙に書かれた柔らかな文字を眺めると、美智子さんとの思い出が胸に去来する。
東灘区にあった2階建ての自宅は震災で1階部分がつぶれた。上野さんと義母、子供2人は無事だったが、足が不自由で1階に寝ていた美智子さんが犠牲になった。
自宅近くの岡本商店街に「灘寿司」を出店したのは1974年の6月16日。美智子さんの誕生日に合わせた。カウンターのみの小さな店だが、2人で店を持つのが夢だった。「頭の良い嫁さんで、お客さんとの会話もうまいんや」。夫婦で切り盛りする店には、笑いが絶えなかった。
被害を免れた店は、震災から約2カ月後に再開した。震災の3年前、ペン習字を習っていた美智子さんが作った2枚の値段表は、そのままにした。「えび250」「いくら500」「特上巻ずし900」--。升目に沿って丁寧に書かれた53品目が並ぶ。
カウンターに立つ間は気も紛れ、常連客との会話を楽しんだ。「お客さんの前では笑顔。でも、家に帰って夜に一人でいると、嫁さんのことを考えましたね。寂しいんですわ」
20年間で水産市場も変動し、すしネタの多くは仕入れ値が上がった。「正直、もうけがないのもある。本当は値上げしたいんやで。でも、嫁さんが作ってくれたんを外したくない。やれるとこまではやりますよ」
長男の好宏(よしひろ)さん(42)が97年、大手食品会社を退社して店に入った。「亡くなった母と店を継ぐ約束をしていたんです」と好宏さんは打ち明ける。
「震災から長いようで短かったな。自分もようやく立ち直れた。でも、嫁さんのことは今でも大好きやで」。はにかみながら、上野さんは美智子さんの値段表をなでた。【久野洋】
2015年1月16日5時0分 朝日新聞
心の復興度
この大みそかも、神戸市長田区の竹内洋子さん(59)宅に徳島から伊勢エビが届いた。生きの良い動きを眺めながら思い出す。義母の正枝さんのことだ。
36年前。洋子さんはまもなく結婚して暮らすことになる、そば屋を兼ねる12坪の小さな家を見上げて、正枝さんに宣言した。「お義母(かあ)さん、いつかビル建てようや」。正枝さんには、けげんな顔で無視された。
嫁しゅうとめの関係は良くはなかった。家事をしても、礼一つ言われない。肝炎で入院すると、「体の弱い嫁をもらいたくなかった」と言い放たれた。
だが苦労して働き、13年ほどして、4階建てビルの新築が決まった。正枝さんは驚いた。「あんた、うそつきやなかったんやな」
その後は何かにつけ、洋子さんに感謝を伝えるようになる。1995年の正月には、伊勢エビ漁で生計を立てる姉が暮らす徳島に家族旅行をした。正枝さんの同行は初めて。蒸し、焼き、刺し身。伊勢エビ料理を堪能しながら、半月後に完成するビルの話題を語らう。正枝さんは、つぶやいた。「こんなええ正月、二度とけえへんわ」
地震が襲ったのは、ビルから建設足場が外された翌朝だった。完成したてのビルは半壊。義父母の家も全壊し、息絶えた正枝さんが見つかった。67歳だった。
4カ月後、ビルを修繕してそば屋を再開すると、復興需要で店は繁盛したが、心は逆にふさいだ。辺り一帯は、焼け野原。「竹内さんとこはビルが残ってええな」と陰口が聞こえた。廃業を余儀なくされ、自殺する知人もいた。
思い立ち、義母を亡くした義父に毛はえ薬を作ってみた。そば屋でも新メニュー作りを担った。義母との関係に卑屈にならず、前向きになるため身につけたすべだ。草や木をオイルにつけ、義父の頭に塗った。
周囲には奇妙な行動に映ったが、心に言い聞かせた。「気が狂ったって思われるぐらいがええねん」
効果がなく、義父は亡くなった。が、洋子さんが残った香木のエキスを歯に塗ってみると、歯周病が治った。歯科大に持ち込むと、抗菌作用を確認。商品化に没頭すると、震災後の不安定な気持ちは和らいだ。
今年の正月、伊勢エビを家族そろって囲んだ。新婚の長女、園絵さん(30)も夫ときてくれた。
振り返って思う。
20年前の正月は満月。今は、少し欠けてるかな。いや、ほとんどまん丸か。
お義母さんも、そばで見てるかな。ええ正月は、二度も三度もあるで。
(伊藤喜之)
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