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福島第1原発事故は、日本に暮らすすべての人にとって、映画の題名で言うと「今そこにある危機」、憲法学の用語で言うと「明白かつ現在の危険」です。
被害は進行中です。
ですから、人々がそれに目を奪われるのは、いたしかたありません。
しかし、私は、広島・長崎に投下された原爆被害も、ビキニ環礁でなされた水爆実験も、いまだ、目の前にある被害であることを忘れるべきではないと思っています。
なぜなら、日本にはまだ二十万人以上の被爆者がいらっしゃるから。
彼らは、皆、放射線被害に今も苦しむ被曝者でもあります。
今回の原発事故と原爆投下による被害とでは、原発と原爆と言うこと以外で、全く異なっていることが二つあります。
一つ目は、原爆投下の際には、被爆者の暮らしてきたコミュニティーが根こそぎ破壊されたことです。
阪神大震災と東日本大震災とを比べると、明らかに後者の方が、社会基盤の破壊が甚だしいですよね。村ごと、町ごと津波に流されてしまったところが方々にあります。そうすると、人々が立ち上がるのは非常に困難です。阪神の時以上に、今回、二重ローン問題の解消の必要性が高いのはこの生活基盤の破壊にあります。
だとすれば、戦争末期で物資がまるでない時期に、原爆投下で街全体が灼かれ、親族から隣近所から勤め先から根こそぎなくなってしまう原爆被害から生き残ると言うことが、どれだけ困難で苦痛であるか、我々でも多少は想像できるではありませんか。
なにしろ、助け合いということがほとんどできません。
炎が迫ってくるのに、倒れてきた家に押しつぶされて動けないお母さんを、見捨てて逃げた少年のお話を、50年後に伺ったことがあります。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の代表委員に今年なられた岩佐幹三さんです。岩佐さんは東京原爆症集団認定訴訟でも、人に言えないはずの苦しい体験をご証言くださいました。
岩佐さんはこの記憶が人に話せない時期が長かった。話せないだけではなくて思い出せなかった。今はPTSDだのトラウマだの、しゃれた便利な言葉があるけれども、そんな学術用語で表現できるようなものじゃない。
我々が忘れてならないのは、広島・長崎の被爆者たちが今も苦しんでいると言うこと。
放射線の後障害に苦しみ、被曝の記憶に苦しむ。
次に、同じヒバクシャでも、フクシマとヒロシマ・ナガサキが違うのは、放射線というものを広島・長崎ではほとんど誰も知らなかったと言うことです。
今でも、被曝とはなにか我々はお互いにしかとはわかりません。しかし、福島では少なくとも原子力発電所が事故を起こし、放射線が漏れたことは皆知っていたわけです。しかし、広島・長崎では、投下された大型爆弾が原子爆弾だということさえ誰も知らなかったのです。
1945年の8月に一瞬にして10万人の人が亡くなった後、1945年中にさらに10万人以上が亡くなるのですが、どんどん血が出る、髪の毛が抜ける、死ぬということがなぜ起こるのかが、本人にも家族にも、そして医師にもわからないのです。
だから、原爆投下直後の広島・長崎に多数の人が救援に行き、入市被爆者となった。
原爆投下の被害を矮小化しようとしたアメリカは、1945年9月にはファーレル准将を日本に派遣。『広島長崎への原爆投下で死すべきものは皆死に絶えた』と宣言させました。ですから、その後、現在まで60余年続く原爆被害は「ないもの」とされてしまいました。
おまけに、アメリカ占領軍、GHQは報道管制を敷いて、被爆者の言論を弾圧し、その被害が報道されないようにしました。だから、日本でさえ、被爆者への理解は一向に進まなかった。
被爆者の方々の急性障害の後の晩発性後障害は、「原爆ぶらぶら病」と言われ、被爆者は馬鹿にされ差別され、散々苦しみました。放射線のせいでものすごくだるいのに、サボっていると見なされたのです。好きでぶらぶらしているわけではないのに。
だれのせいかといえば、アメリカのせいです。アメリカは原爆を投下し、真実を隠蔽し、二度被爆者を殺した。
冒頭に、現在でも被爆者は20万人以上いると書きましたが、それは被爆者健康手帳の受給申請をした方々の数字です。自分が被曝者であることを隠して生きておられる方がどれだけいらっしゃるかはわからないのです。健康手帳で得られるすべての便宜から目を背けても隠さねばならない、我々には想像も出来ない差別と恐怖が、被爆者として生きることにはあったのです。
健康手帳はもらっても、岩佐さんのようにご自身の体験を話しておられる被爆者は少ないのです。
同じ差別の苦しみを、福島の人に味あわせてはなりません。お互いに心しましょう。
よく、「私は広島、長崎の出身だから、原爆のことはよく知っている。その立場から核武装(苦笑)」などという傲岸なことをいうウヨクの人がいるのですが、「知っている」なんてとんでもない話です。もちろん、被爆者の方々と出会って30年の私にもまるでわかりません。
実は被爆の実相は被爆者にもわからない。被爆者個人個人が体験されたのはご自身一人の経験です。しかし、広島・長崎というその地方の中核都市に表面温度6000℃といわれる熱球が突然現れ、熱と爆風で街が破壊され、親類縁者みな死に絶え、生き残った自分も実は目に見えない放射線に皆やられてその後何十万人もが半世紀以上苦しんでいる。。。。という被爆の全体像は、広島で教育を受けたとか、長崎の原爆資料館に行ったとか、ご親族に被爆者がおられて話を聞いたとか、もちろんそういうことは素晴らしい貴重な体験ですが、それですべてがわかるというものではないと思います。
わからないから理解しようと努めること。
広島・長崎・ビキニにしても、福島にしても、我々に出来るのはそれしかないと思います。
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原爆孤児たち
ひと:岩佐幹三さん=日本被団協代表委員に就任
業火の広島で、家の下敷きになった母を助けられなかった。「今度こそ助けるぞ」。己の叫び声で目が覚める。60年以上たっても、そんな夜があった。
「被爆者であることは一生背負っていかなければならない」。6月、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の3人いる代表委員の1人に就いた。核兵器廃絶と、被爆者援護法を改正し原爆被害への国家補償実現を求める運動の先頭に立つ。
あの夏、たどり着いた叔母の家で「お母さん、殺しちゃったよ」と泣き崩れた。1カ月後に急性障害で倒れ、4歳下の妹を捜すのをあきらめざるを得なかった。就職しようとした企業から、被爆を理由に暗に断られた。
学者の道に進み、1960年、当時住んでいた石川県で創設された原爆被災者友の会の初代会長に。県に掛け合い、広島・長崎から医師を呼んでの健康診断を実現させた。
約10年後、学者らが日本被団協に助言する「専門委員」に就き、被爆者援護法制定を求めて旧厚生省前で座り込んだ。大学退官後は千葉に移り、原爆症認定集団訴訟の原告に加わった。「国は、亡くなっていく被爆者を見捨てた。胸の中に怒りのしこりが残っている」。その思いが、自分を突き動かす。
「核被害は終わった話ではない。自分にも起こりうる問題と考えてほしい」。世界には2万発超の核弾頭が存在し、東京電力福島第1原発事故は収束しない。「核の脅威から人類を解放しなければならない」【加藤小夜】
【略歴】福岡市生まれ。金沢大法学部長を経て00年から日本被団協事務局次長を務めた。千葉市で妻と2人暮らし。
毎日新聞 2011年8月2日 0時02分
わたしの個人的なHiroshima原爆被爆とFukushima原発被爆の相違点は、
(1)、ひろしまケースでは、アメリカ合衆国が「外国人の日本人種・民族」を、社会実験の材料にしたこと、
(2)、ふくしまケースでは、日本国政府が「自国民」を、社会実験の材料としたこと
の差があったという視点です。
もっとも、どちらも社会実験、生体実験の対象であった点では、異なるところがない。すなわち、何れも人間と社会を放射性物質の照射によって、実験しデータ収集を図った結果として、「人間を人間扱い」としていない。
これを、非人道的な行為を言う外ない。
ここに、われわれ日本人、ないし日本民族は、どうしても”人の心”を自ら取り返して、思想的にも自立した上、核エネルギー・核物質の実験により、生命財産の人権保障を侵害されてきた事実について、その不法・非道の究明をすべき道義となるのではないか?
しかしながら、日本国民に授かった軍事・平和利用の核被爆は、冥府魔道の宿命となって容易に乗り越えられるものではない。どんなに迷っても、地獄の暗闇をさ迷い歩く命運となって、出口を脱することがままならない。
これは、何処か日本社会に隙があって、歴史上の遡及した解明を待たれる。しかし、現実に、この国内における、原発核燃料溶融、原子炉外流出の収束も見えず、どう考えたらいいのかと苦慮している内に、原爆投下の米軍による、社会実験記念日となってしまった。
今年は、昨年の広島長崎原爆投下8.6記念行事とは、以上の相違した非常事態の原発危機に際し、この暗黒の冥府魔道を彷徨う我らに、天よ!自ら自立して救いの達成たなり得る、”一筋の道”をお教え賜らんことを、、、
そう、自ら考えを一転して、「唯一つの点に絞り弛まずに追求すれば」、天もご覧あって地獄の道を脱出できる。それは、「非核・非原発以外にあり得ない」のではないだろうか?何事でも一度失敗したら、その元に返って反省して止めるのが、鉄則ですから、、、
この場合にも、例外でなないのです。
敬 白
今日は仙台以外に、福島、青森の方々のお話を伺いました。
明日は郡山に半日いて、お話を聞き、また夜行バスで帰ります。きついなあ…お話も風景も腰も(笑)
なるほど、人の復興が、これからの課題なのですね、これは現場に居ないと掴めない現実でした、帰り便、くれぐれもお大事に、、、
カフェさん、僕も涙が出ました。
ミーティング後は鎮魂のため、七夕まつりに行ってきます。
なお、今日のヒロシマの記事と明日の報道の自由の記事は、出発前に予告投稿しました。
つくちゃんのデスクの上に、被災者の方からのハガキがあったのを見ました。
住所は仮設。
避難所では正座して話を聞いてくれてありがとう。自分みたいなもんに…無事仮設に入れた。救われたみたいな趣旨のことが書かれていたのがとても印象に残りました。
ところで、お話を聞くボランティアさんの数がたりなさそうですか?rayさんの実感として…。
また教えて下さい。
あれでくじけます。
仙台ボランティア協会も、仙台市の海岸にも、人っこ一人、ボランティアはいませんでした…