
阪神大震災を受け兵庫県内に建てられた災害復興住宅で、一人暮らしのまま誰にもみとられずに亡くなった「独居死」が、2014年の1年間で40人だったことが分かった。データの残る00年以降では計864人。同年に解消された仮設住宅でも233人が確認されており、この20年間で両住宅での独居死者数は少なくとも1097人に上っている。
2015年01月16日 毎日新聞
◇「防げる悲劇」対策もっと
阪神大震災(1995年1月17日)の死者6434人のうち921人は、地震後に受けたさまざまなストレスや病気の悪化、過労などによる「震災関連死」だった。だが、この人数に自殺者は一切含まれていない上、震災に起因した可能性があるのに関連死と認められなかった犠牲者も少なくない。数字に残らない多くの悲劇があったことを知ってほしい。そして国や自治体に「防げる死」の対策をもっと進めてもらいたい。私は記者として、遺族の一人として、そう願っている。
◇6日後自殺の父、統計に入らず
あの日、中学1年だった私は大阪市の自宅にいて、突き上げる揺れで目を覚ました。家に被害はなかったが、建設会社の技術者だった父はすぐに呼び出され、倒壊したJR六甲道駅(神戸市灘区)などの復旧工事に加わった。
数日後、深夜に帰宅した父に被災地の様子を尋ねた。「何もかも、めちゃくちゃや」。言葉少なに答える、父の疲れ切った表情。それが、私の見た最後の姿になった。
震災6日後、父は泊まり込んでいた大阪市の会社内で自ら命を絶った。47歳だった。母と、高校生の兄2人、私、小学校入学を控えた妹の5人が残された。
早々に妹の赤いランドセルを買い、誰よりも入学式を楽しみにしていた父が死を選んだ理由は家族にも分からなかった。がれきと化した街並みに絶望したのか。築き上げてきたものが一瞬で崩れ去り、無力感に襲われたのか。今はもう知るよしもない。
専業主婦だった母は働き始め、きょうだい4人を大学に入れてくれた。苦労する背中を見ながら、父を恨んだ日もある。父がいない理由を友人に聞かれた時は「震災で亡くなった」とも「自殺した」とも言えず、「震災の後に亡くなった」とあいまいに答えてきた。
関連死という考え方は阪神大震災で生まれた。以後、市町村が関連死と認定して遺族に災害弔慰金を支給した場合、国は災害の死者数に含めている。だが認定基準に明確な定義はなく、災害ごとに線引きも変化してきた。阪神大震災から20年を迎えるのを機に、私は地震後に病気の悪化や自殺で亡くなったのに関連死には認定されていない人の遺族を訪ねた。
関連死と認められなかった悔しさ。「なぜ防げなかったのか」という後悔。誰もが、今なお癒えない傷を抱えていた。当時、私たち家族は父の死と弔慰金を結びつけることはなかった。申請すらしていない私の父の死は、震災のどんな記録にも残っていない。だが母は今でも、ニュースで震災の死者数を聞く度に「もう一人いるのに」と胸が締め付けられるという。「地震さえなければ」という遺族の思いは、その死が公的に認定されているか否かに関係なく、消えずにある。
◇犠牲者の実態、詳細な検証を
一方で当時、基準も前例もない中で、自治体は病死や自殺を個別のケースごとに関連死と認めるかどうかの判断を迫られた。認定の現場は、行政としての客観性と遺族感情の間で揺れ動いたという。
元神戸市幹部の男性は取材に対し「被災者に分配できる義援金はわずかだった。弔慰金はできるだけ広く認めたいと思う一方、税金を使う以上は公平な基準も必要だった」と語った。
神戸市は自殺者7人を関連死と認めた。だが国は当時、「過去の災害記録との整合性」などを理由に震災死者数から自殺者を除外した。このため、阪神大震災と関連するとみられる自殺者が一体どれくらいいるのか、全く分からないままとなってしまった。
阪神大震災以降、国や自治体はさまざまな関連死対策を講じてきた。避難者の心のケア、感染症の防止、避難所の環境改善−−。東日本大震災では関連死と認められた自殺者は、震災死者として数えられるようになり、内閣府は、地震と関連のある自殺者数を今も調査し、把握している。
これらは大きな犠牲を払って得られた「阪神」の教訓だ。だがそれでも、東日本大震災の関連死は3000人を超え、原発事故の影響で避難が長期化する福島県では、津波や家屋倒壊による直接死を上回った。自殺者は被災地全体で135人に上る。復興庁が関連死の実態を検証しているが、犠牲者の一部だけの分析にとどまっている。
関連死の原因は多種多様だ。一人一人の事例をもっと詳細に検証して対策を講じなければ、同じ悲劇がくり返されてしまう。官民で知恵を出し合い、地道な方策を一つずつ積み重ねてほしい。地震では助かったのに、網の目からこぼれ落ちるように失われていく命が一つでも少なくなるように。
阪神・淡路大震災20年 何も変わらない「死」の群
■情報インフラは発展したけれど...
阪神・淡路大震災が起きた20年前というと1995年。つまり「Windows95」が発売され、インターネットの本格的な普及がスタートした年である。だから、震災が起きた1月当時は、まだインターネットによる情報流通は存在しなかった。被災地における情報は、口コミと、ラジオ・テレビ・新聞によるメディアに頼るほかなかった。
私たちは、ラジオに耳を傾けて被害状況の把握に努め、目を皿のようにして新聞の文字を追って知人の安否を調べ、必要な支援情報を自分の手で発掘する作業に明け暮れた。被災者は情報に飢えていたのである。
2011年の東日本大震災では、まったく状況が違っていた。津波の様子はSNSを通じて瞬時に世界中に発信された。政府や自治体のホームページには多様な情報があふれ、避難所に行くと大量の支援文書が山積みになっていた。
もっとも情報がきちんと届いていたかどうかは別問題である。的確な情報にアクセスする能力や、あふれる情報を取捨選択するリテラシーがないと、結局、情報には辿り着けない。「情報格差」が新たな課題となった。また、原発に関する情報は意図的に隠され、それがパニックの引き金になった。さらに個人情報保護が人と人の絆を阻んだ。「適時に的確な情報があれば、人々は正しい選択ができる。」これは民主主義の基本。こうしてみると、東日本大震災では、情報インフラの発展という光の面と、情報に基づく民主主義の未成熟さという陰の面を、見事にあぶり出したように思える。■明らかにされない、それぞれの「関連死」
一方、何も変わらないのが「死」に対する向き合い方だ。
阪神・淡路大震災6434人、東日本大震災1万8483人。それぞれの災害の死者・行方不明者の人数である。私は、この数値を見るたびに違和感を覚える。理由は3つある。第1は、死は一人ひとりについて悲痛な事実があり、本来それぞれに向き合うものであって「数える」ものではないと思うからである。第2に、無機質的に死者が数値化されることにより死の本質が隠れてしまうように感じるからである。第3に、死者数を災害の規模を計るモノサシとする傾向があるが、災害の実相は必ずしも死者数に比例するわけではないと思うからである。この傾向は、20年前も、今も、まったく変わっていない。
今から10年前、兵庫県西宮市にある阪神復興住宅で、63歳の男性が白骨化して死亡しているのが見つかった。男性は阪神・淡路大震災で被災し、仮設住宅のあと復興住宅に移り住み、その後に失業し、一人暮らしとなった。家賃を滞納し、強制執行のために室内に立ち入ったところ発見された。亡くなってから発見されるまで約1年8か月。震災から10年経った時期における孤独死の実際である。復興住宅での孤独死数は864人とされる。それぞれの死の実相は明らかになっているのだろうか。
東日本大震災では、関連死が3194人にのぼると報じられた。こうした統計数値はあるが、不思議なことに一人ひとりの関連死の背景や実情は調査されていない。災害関連死は、災害で助かった命が、その後の施策の不足によって落命したもので、人の手で防げた「死」である。どうすれば関連死を防げるのか、本気で取り組んでいるのか。日本弁護士連合会は、関連死の個別調査を強く求めている。■一人ひとりの「死」に向き合う情報のあり方を
額田勲著『孤独死-被災地神戸で考える人間の復興』にはこう書かれている。「効率を求めて動いていく高度情報社会では、おそるべき情報の消費量がスピードとリズムを作りあげて、その速さで人間もどんどん変質していく(中略)日本社会の不幸はすべからくすぐに忘れ去られる構造になってしまって、大災害にかかわる数々の悲しみや苦しみは、独特の社会システムの中にあっけなく埋もれてしまった。」
私は情報の発達を歓迎する。ただし、情報は人の幸せを培い、社会の発展のために存在するのだから、何よりも大切な価値である生命のために、利用されなければならない。一人ひとりの「死」に向き合う情報のあり方を考えたい。「死因究明等の推進に関する法律」は医療・科学的な見地から死因を明らかにするために2012年に新設された法律だが、それだけにとどまらず、社会的な視点からアプローチして、災害における死の実相を究明することも大切である。
<私の20年>阪神大震災を糧に/5 津久井進さん /兵庫
毎日新聞2015年1月15日(木)12:58
▽当時=司法修習生▽現在=弁護士 津久井進さん(45)尼崎市
◇「非体験」熱意の試金石
津久井進さんは、阪神大震災があった1995年の4月に弁護士登録してから、災害復興支援に深く携わってきた。弁護士や司法書士など「士業」の専門家による災害被災者支援組織「阪神・淡路まちづくり支援機構」には96年の設立当初からメンバーとなり、2001年から事務局長をしている。日本弁護士連合会の災害復興支援委員会副委員長も務め、全国の災害対応に奔走している。
原点は、「震災非体験者」としての体験だった。震災当時、司法修習生として埼玉県和光市の司法研修所で勉学に励んでいた。県立長田高、神戸大と進んだ津久井さんは、被災地の惨状をテレビなどで見て、「神戸人として何かをしなければ」と思った。
しかし、最終試験が目前に迫っていたため、被災地に駆けつけられたのは震災から2カ月後だった。同期の修習生ら約90人と、避難所で炊き出しなどのボランティアをしたが、「神戸人として『その時(災害発生時)にいなかった』という罪悪感と、自分が被災地で役に立てなかったという無力感が残った」という。
一方で、修習生の時にボランティアをしたからこそ、分かったこともある。「弁護士の卵です」と語りかけると被災者から「がんばりや」と声をかけられたが、後になって「弁護士です」と言うと相手の反応に距離を感じたのだ。垣根を取り除くには、弁護士の側で努力しなければいけないとの思いを強くした。
東日本大震災(11年)の被災地では、避難所となっていた体育館に相談ブースが用意されていたがそれは使わずに、自ら被災者の輪の中に入って耳を傾けた。09年8月の佐用町の水害では、「車が水没したが、自動車税はどうなるのか」「家が流されたが、更地並みの高い固定資産税を払わなければならないのか」といった相談を受け、税理士や不動産鑑定士らと解決策を練るなど、当事者に寄り添う姿勢を大切にしている。
震災から20年を迎えるが、津久井さんは「大事なのは21年目」と言う。「借り上げ住宅の明け渡し問題のように、どこかで区切らないといけないと行政は考えがちだが、復興はしゃくし定規にはいかない」と考えるからだ。「震災の影響が残っている限りはフォローし続け、被災地で起きた教訓も次世代に承継していきたい」。今こそ「震災非体験者の熱意」が試される時だと感じている。【後藤豪】=つづく
神戸版
「今も厳しい状況」 阪神・淡路大震災の傷跡〈週刊朝日〉
dot. 2015年01月16日 11時38分
【被災地の地場産業、その他の写真はこちら】
42歳で瓦の世界に飛び込んだ山田脩二さん(75)。和風の淡路瓦は、需要が減りつつあった上に、「瓦は重くて危険」という震災報道で大打撃を受けた。
「業界も震災前から大量生産による効率化や、安価で均一的な瓦作りを優先してきました。それを否定はしないが、製造者全部がそうなるのは違うと思う」
2008年、山田さんは地元の有志と「ダルマ窯」を再窯。薪による焼きムラや経年で味わいが出る淡路瓦の魅力を、後世に伝えたいと考える。
「地震は怖いし、命も大事。でも、日本が培ってきた建築文化や、瓦が連なる集落といった人の暮らしがなくなるのも嫌なんです」
「当時のことは思い出したくもない。嫌な思い出ばかりだ」という、ケミカルシューズメーカー・エレーヌの専務、時見弘さん(57)の言葉がずしりと響く。
工場は倒壊を免れ、今も靴作りを続けているが、隣の自社ビルは全壊。1年後には工場の火災にも見舞われた。
震災で業界全体が打撃を受け、今も厳しい状況は続く。一方、同社は外反母趾(ぼし)の人向けのセミオーダーブランドを作るなど、強みを増やしていった。
「次世代にどう引き継ぐかを考えるが、むしろ世代交代を早めて、震災当時を知らない人が切り開いていくほうがいいのかもしれないとも思う」
多くの酒蔵が被災した灘五郷。その中で、奇跡的に倒壊を免れた木造の酒蔵がある。大澤本家酒造では震災当時、酒の仕込みが一段落したところだった。
同社取締役の大澤一慶さん(34)は当時中学2年生。9代目社長の父・一雅さん(66)と自宅から車で蔵に向かった。途中、寸断された高速道路でバスが宙吊りになった姿が目に飛び込んできた。なのに同社の蔵は持ちこたえ、酒も無事だった。
「先祖が守ってくれたとしかいいようがない」(一慶さん)
昭和20年代に建てられた灘五郷唯一の木造蔵では、今年も昔と同じ手作業での酒造りを行っている。割水しない原酒のうまさにこだわり、直販しかしない。
「震災直後も今も、その時々に一生懸命やってきてこその現在。継続することこそ、難しいと痛感しています」(同)
※週刊朝日 2015年1月23日号
「独居死」20年で1000人超 阪神大震災 仮設・復興住宅
2015年1月15日 夕刊 東京新聞
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阪神大震災を受け兵庫県内に建てられた災害復興住宅で、一人暮らしのまま誰にもみとられずに亡くなった「独居死」が、2014年の1年間で40人だったことが分かった。データの残る00年以降では計864人。同年に解消された仮設住宅でも233人が確認されており、この20年間で両住宅での独居死者数は少なくとも1097人に上っている。
兵庫県警の検視結果などを基に、神戸新聞社がまとめた。仮設から復興住宅への転居が進んだ一九九八、九九年は復興住宅での独居死者数のデータがないため、総数はもっと多い可能性が高い。
独居死は九五年三月、尼崎市内の仮設住宅で六十三歳の男性が病死から二日後に発見されたのが最初。長引く仮設暮らしや失業などが被災者の負担となり、自殺も相次いだ。仮設住宅の解消後は〇二年の七十七人が最多。一一年にいったん三十六人まで減ったが、入居者の高齢化に対応した見守り態勢強化が課題となっている。
昨年一年間に確認された四十人(男性二十七人、女性十三人)は四十二~九十三歳で平均七四・七歳。死因は病死が最多の三十人で、自殺が四人、浴槽でおぼれた事故死が二人などだった。神戸市中央区の男性(87)は死亡から約七十日後に部屋からの異臭で見つかるなど、発見までに一カ月以上かかった人が二人いた。
近年は復興住宅に一般の居住者も住んでおり、独居死とされた人の全てが被災者とは限らないとみられる。