先月の下旬、どこかの 民放テレビ局が、"I don't know." と すべきところを
あやまって "I don't no." のように 字幕で 表示してしまったという 話題が あった。
(フジテレビがテロップで「I don't no」)
たしかに 正式な英語 ではないが、実際に つかわれることも あるようだ。
この場合は、don't の 直後に no が あるので、すぐに know だと わかる。意味を とりちがえることは ない。
だから、I don't know. を I don't no. と 書く人は かなり いる。
だが、I know ... を I no ... と 書く人は、あまり おおくは ない だろう。
know と no が おなじ つづりに なってしまうと、本当に 読みにくくなる。
しかし、よぶんな 文字は 書かない と いう ルールの もとに、know を かならず "no" と 書くような 英語つづり字改革案が あったとしたら どうだろうか。
じつは、そのような つづり字改革案も すでに 存在 する。あるいは 存在 した。e-speec.com が そうだった。
そして、「改革案もどき」である スペリングソサエティーの 「ハウススタイル」も そうなのである。
まだ "kno" は ゆるせる。すぐに know の ことだと わかるし、no との くべつ も できる。
しかし、know を no と 書くのは 読みにくいだけだ。
このような つづり字改革案 や 改革案もどきを 支持する 人たちは、「文脈で 判断できる」とか 「そもそも 会話では つづり の くべつ など なくても 意思疎通が 可能ではないか」 などと 言ってのける。back, bar, if などは 意味が いくつも あるのに おなじ つづり で もんだい ないではないか、などと 言われると ことばを うしなう。
meter と metre の つづり の くべつ は なくてもいいと おもう。
tire と tyre の つづり の くべつ も べつに なくても かまわない。
しかし、no と know の くべつ は ひつよう で ある。
表音主義の「サウンドスペル」でさえ、"no" と "noe"(know) のように つづりを くべつ している ほど だ。
だが、この 方法 では night と knight の くべつ が できなくなってしまう。
white night と white knight の くべつ は すてがたい。
やはり、k の ある・なし に よって くべつ できた ほう が いい。
英単語 の でだし の 読まない文字 には 存在意義 が あるのだ。