信玄公の慧眼と「六文銭」が化学反応を起こしたら?(その1)

2021-09-16 12:38:54 | 紹介
「武田二十四将」は、武田家家臣の中でも、選りすぐりの23将+信玄公のこと。
これは、戦国時代に使われた呼び名や役職ではなく、
江戸時代以降の講談や軍記物で人気を博し、高く評価された方々のこと。
なので、「武田二十四将図」には、信玄公に仕えた方も、勝頼公に仕えた方も一緒に描かれて、
ある意味、時空を超えた図像になってます。

24将✨ 信玄公はもちろんですが、そうそうたる顔ぶれなんです。

そんなメンバーに、唯一、親子で選出されているのが真田ファミリー。
真田家の礎を築いた真田幸綱、その長男、真田信綱、
兄・信綱と共に、長篠の戦いで戦死する次男、真田昌輝、
三男、真田昌幸は(武藤喜兵衛)、ご存じ真田信繁(幸村)の父。
※23将は、図像によって変動します。
 幸綱、信綱は常連ですが、他の二人は図像によりけり・・のようです。
※昌幸の弟、真田信尹(のぶただ)は、当館主催、昨年度の「武田24将総選挙!」で、
 武田ファン💛の厚いご要望にお応えして、緊急エントリー。
 今年度の「武田二十四将 ドラフト会議」にも、もちろん参入。
「前線部隊」の投票エリア。右側1列目はみ~んな真田氏。
そんなお家は、他にはありません。

・・・
真田家は、どうしてこんなに人気なんでしょう。

織田信長などの戦国の三英傑、上杉謙信、伊達政宗、
そして我らが信玄公✨といった戦国大名よりも下のランク・・にもかかわらずこれだけの人気。
幸綱、昌幸、そして信繁(幸村)の生き様と死に様に、
多くの人がノックアウトされてしまった・・ということでしょうか。
その英雄像は、あくまでも創作・・でも、真田氏はお家存続のため、
持てるもの全てを注ぎ込み、戦国時代を小気味良いほどにサバイバルした方々であったことは確か。

・・・
真田氏は、信玄公の代から武田氏に仕える家。言わば外様です。
おそらく、かなり古い時代から、信濃の真田郷を本拠地としていた土豪のようですが、
信虎とその同盟軍による信濃侵攻で敗北、親族を頼り、上野国(現在の群馬県)に逃れています。

家族共々、武田氏に国を追われた幸綱ですが、天文11年(1542)以降、
信虎を追放して間もない信玄公に仕えるようになり、信州先方衆として活躍。
仕官して、わずか4,5年後には、東信濃の佐久一帯の支配を任されます。
幸綱が、武将として、いかに優れていたかは、
天文20年(1551)、信玄公に辛酸をなめさせた戸石城を、たった一日で(!)攻略したことでも明らか。
北信濃から村上義清を排除できたのは、
幸綱の地縁、諜報、謀略なくして成しえなかったと考えられていますし、
川中島の戦い後、今度は西上野侵攻でもしっかりと役割を果たしています。

順調に築かれた主従関係のように見えますが・・・
信玄公は、「昨日の敵」を家臣として召し抱えたわけですから、
おそらく、周囲の反対を押し切った、かなり思い切った決断だったに違いありません。

その後のことは、ざっとご紹介した通りですが、
次は「六文銭旗」をヒントに、真田氏の人気のヒミツを探ってみたいと思います。
続きもどうぞ、お付き合いください🙇

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