信玄公の慧眼と「六文銭」が化学反応を起こしたら?(その2)

2021-09-17 13:36:56 | 紹介
真田ファミリーの人気のヒミツを探っています💡

真田という小大名家。その礎を築いた真田幸綱。
信玄公の父・信虎公の時代に、信濃小県を追われ、にもかかわらず、若き当主・信玄公に仕えることに。
そして、いつ復讐されるかわからない「昨日の敵」をあえて迎え入れたお館さま。
それなりの計算もあったでしょうが、その後の幸綱の働きから、
信玄公はなかなかの慧眼力、人や物の能力を見抜く力をお持ちだったことがわかります。

信玄公の目に、一回り年上の真田幸綱はどんな風に映ったのでしょうか・・・。

幸綱なりの勝算があったのでしょう・・、管領上杉氏に頼る本家と決別、
「六文銭」の覚悟を決めて(?)、信玄公のもとに参上します。

※真田氏が、いつ、戦時の旗印を「六文銭」としたか、実は定かではありませんが、
 もともとは本家・海野一族が、遅くとも室町中期には使用していた家紋と言われています。
 真田氏は「六文銭」の他に、平時は「結び雁金」や「州浜」を家紋としました。

「六文銭」=三途の川の渡り賃として、棺に納められるお金のことですが、
これを家紋・旗印として掲げることは、まさに「不惜身命」、
仏教でいう六道・・地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、そして天上、
いつでも、どこの世界にでも堕ちる覚悟の表れ。

珍しい「銭紋」をシンプルかつ大胆に家紋としたところにも、潔さとしたたかさを感じます。
この時代は、商業にしろ、流通にしろ、経済活動がますます重要となった時であり、
「きれいごとは必要ない」という幸綱の声まで聞こえてきそう。
調略をするにしたって、それなりの資金が必要だったはずですから。

信玄公はもちろんですが、幸綱もまた政治的工作を駆使するタイプ。
孫子の兵法。戦力温存優先。戦わずして勝利する、です。
そんな二人が出会ったとき、何か通じ合うものがあってもおかしくなく。

・・・
幸綱が兵法を、どこでどのように学んだのかはわかりません。
武士の教養として、「孫子」「呉子」「六韜」(りくとう)、「三略」あたりは読んでいたかもしれません。
ただ、孫子の兵法などを深く学んだと伝えられる信玄公も、
そうした書は、あくまでも古代中国を背景とするもので、
現実の合戦や築城には取り入れがたいと語ったように(「甲陽軍鑑」より)、
あまり現実的なものではなかったようです。
それでも、兵法書が読まれたのは、どうやら「戦時の人間とはどういうものなのか」を学ぶため。

幸綱の活躍を見るに、人間というものに通じ、合戦においては敵の心理をついて、謀略していく。
さらにその裏付けに、地縁を駆使して収集した情報が、重要な役割を果たしていって。

知謀・知略を総動員させた幸綱の戦い方は、自然、子どもたちにもインストールされたに違いありません。
幸綱の次男・昌輝は、信玄公の小姓から、お館さまの戦時の伝令役「百足衆」に抜擢され、
三男・昌幸に至っては、外様ながらも信玄公の奥近習衆に登用され、
父に加え、信玄公の薫陶を受け、平時・戦時に必要な知識を学び得たと言われています。

そして、父・昌幸の持てる知識のすべては、長男・信幸、次男・信繁(幸村)に伝授されたはず。
幸綱には、信虎に国を追われた後、上野での亡命時代がありましたが、
信繁(幸村)も、滝川、上杉、豊臣での人質時代に加え、
関ケ原合戦後は、昌幸と共に、高野山の麓の九度山で長きにわたる蟄居を余儀なくされました。
まさにこの間、来るべき時に備え、武士としての学びを熟成させたことは想像に難くなく。

・・・
武家が本領にこだわるのは、当時としては当たり前。
家の大義はお家存続であり、主従関係は契約的なもの。
真田氏の面白さは、その知謀と知略を何よりの武器として、
家の大義と主への恩義を、真田流に両立させたところでしょうか。

例えば、勝頼公の武運に見切りをつけた昌幸は、
北条氏に書状を2通も送り、織田信長には馬のプレゼントまでして、
それぞれに恭順の意を示し、天正壬午の乱 の嵐をうまく乗り切っています。

関ケ原合戦の際には、もともとの主従関係や縁戚関係により、
昌幸と信繁(幸村)は豊臣方に、信幸は徳川方に、
さっくりと(かは、わかりませんが)東西に分かれ、双方協力、真田家維持に努めます。

大坂冬の陣、夏の陣で、最期まで豊臣方として勇猛果敢に戦い、
権現様まで震え上がらせた(!?)真田幸村。
幸村が思いのままに奮戦できたのは、兄・信之によって家の大義が守られていたから。
猛将・幸村の姿は、真田幸綱・昌幸・幸村の「真田三代記」(江戸中期~末期)などで、
幕藩体制下における理想的な忠義の姿として、エンターテイメント性抜群に描かれました。

「六文銭」の覚悟を見せた幸綱と、「昨日の敵」を受け入れた信玄公。
全ての始まりはこのお二人の出会いから。
どちらか一方でも欠ければ、今も多くの人を魅了する「真田流」は日の目をみなかったはず・・・。

・・・
特別展示室、逸品展示コーナーでは、
「真田氏赤地六文銭旗」(韮崎市教育委員会所蔵)を展示中。(10月4日(月)まで)
幸綱の覚悟の「六文銭旗」、ぜひご覧にいらしてください🙇

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