永禄4年9月10日 歴史的な激戦となった川中島の戦い

2022-09-10 13:06:54 | イベント
戦国時代で激戦といえば、皆さんはどの合戦を思い浮かべますか?
各地方の各大名ごとに大合戦はいくつもあると思いますが、
歴史上有名な合戦として、武田信玄と上杉謙信が戦った川中島の戦いは
間違いなくそのうちの一つと言えると思います。

信玄ミュージアムでは、これまでもお知らせしてきましたとおり、
無料エリアの常設展示室で参加型企画展
「決戦川中島 武田・上杉勝者はどっち?」を
7月20日(水)から9月30日(金)まで開催しています。
残すところ3週間となりましたが、昨日までに4000人超の投票をいただきました。
現時点で6:4で武田勢が優勢となっています。

戦から約460年が経ち、激戦地も市街地化して様変わりいたしました。
第4次川中島の戦いは八幡原の戦いとも言われますが、
その名の由来となりました八幡神社一帯は史跡公園となり、
そして園内には長野市立博物館も所在しています。
神社の隣には合戦の激しさを象徴する両軍大将の一騎打ちの銅像も。
戦は、9月9日から夜から動き出します。
山本菅助らの献策を用いて武田勢は軍を2つに分け、本隊は八幡原へ布陣し、
別働隊は上杉謙信が陣を置いた妻女山へ。
別働隊が背後から急襲し、撤退する上杉軍を八幡原に布陣した本隊で殲滅する
作戦をとりましたが、謙信に見破られて武田軍は窮地に陥りました。
その後、別働隊が到着して形勢逆転となり、上杉勢の撤退で幕が下りた、
そう一般的に伝えられています。

ところが、非常に有名な戦であったにもかかわらず、遺された史料が少なく、
戦の実態は明らかではありません。
私たちがビジュアルで目にし、知っている川中島の戦いのストーリーは、
いずれも武田側の『甲陽軍鑑』、上杉側の『北越軍記』など
後世の編纂物で語られたものであり、事実を記録したものではないものを
事実だったかのように信じているということです。
そのため、いまだに不可解な謎も多いわけでして、
例えば、なぜ上杉謙信は海津城の先に位置する妻女山に布陣したのか?
あるいは、現実的に妻女山に万の軍勢が収まったのか?
武田の別働隊も同じく大軍がどうやって狭い尾根を伝って進めたのか?
鶴翼の陣、車掛りの陣の戦術勝負はあったのか?
などなど、言い出したらキリがないのですけど😰 

ただ、大将同士の一騎打ちも含め、戦況は不確かながら、語り継がれるほどの
激戦であったことは、数少ない遺された文書からも間違いないようです。
特にこの戦で武田側は、武田軍の副将とも目された武田信繁が戦死し、
両角豊後守や山本菅助ら名だたる武将を失っていますので、損失は相当な
ものだったと想像されます。
すべてではありませんが、戦死した武将たちに共通して言えることは、
いずれもこの時期に北信濃の軍事行動に関与していた人物であり、
上杉勢と最前線で対峙してきた武将たちであったことです。
このことが何を暗示しているのか今はわかりませんが、
おそらく戦況を知る上で、何か意味があるのだと思っています。
まだまだわからないことも多く、謎が多い第4次の川中島の戦いですが、
これから散策には適した季節ですので、現地を歩きながら
思いを馳せてみてはいかがでしょうか?

コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

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お取り上げありがとうございます (武田の赤備え)
2024-10-20 00:30:31
通りすがりでございます。先祖が第4次川中島の合戦で武田本陣の右翼を守った浅利配下の飯室です。浅利配下にも赤備え部隊があったから、第4次川中島で右翼を守ったのと思います。所で、信玄公が上杉領に侵略した理由は、寄生虫の影響があったように思われてなりません。当時も昭和の中頃まで甲府は米は取れても日本住血吸虫に被害を受けていて、石高と農民の死亡に問題があるからです。当時は蛋白質も米からの摂取が通常と考えると、上杉謙信の常勝も米の取れ高に関係すると思われてなりません。
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コメント、ありがとうございました。 (記事担当)
2024-10-21 20:37:30
過去の記事でしたが、ご覧いただきましてありがとうございました。
浅利氏は、信種が奉行を務めていますし、西上野の箕輪城代を務めていますので、信玄期には有力な家臣だったことは間違いありません。
確かに地方病の歴史は長く、昔から存在していたと思われますが、資料的な裏付けがないものですから、私どもの立場からはなかなかコメントが難しいところです。
信玄ミュージアムでは、館内で確認された火災の跡から米とともに一定量の麦の出土が確認されています。米食にかわって小麦や大麦を食べたことも多かったと思います。いずれ戦の要因に天災等による作物の不作による食料確保が要素の一つであったことは疑いありませんので、肥沃な水田地帯を持てなかった甲斐国では、寄生虫問題以外でも食料確保は悩みの種だったことでしょう。
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