華道・・・
室町時代から戦国時代にかけて大成された日本伝統文化の一つです。
社会情勢の不安のただ中の戦国時代には、
京の公家や僧侶が地方に招かれ、京文化を伝えました。
華道もそのひとつであり、池坊などの流派が地方に多くの門弟を育てました。
この時代、その名を華道史に刻み、「池之坊一代之出来物(傑作)」と評価されのが、
華道の大成に貢献した池坊専好が、豊臣秀吉のために立てた「大砂物」。
池坊 いけばなの根源
華の道・・・ですから、武士としての鍛錬と精神の修練の先にも続くものがあり、
茶の湯同様、武士がいけばなに心寄せたのは、
その先の、花を見て万物を見る、懐深い世界観ゆえだったかもしれません。
残念ながら、信玄公といけばなの関わりを記した記録は残されていません。
ですが、武田氏もまた、御成や茶事などの催しで活躍した同朋衆(※1)を抱えていました。
お客様をもてなす席のために、花を生けた同朋もいたはず。
そんな花の姿に、信玄公も何かを感じることがあったとしてもおかしくなく。
(※1)同朋衆は唐物の鑑定と管理、芸能、茶事などをつとめ、
その経験の蓄積はいけばなを中心とした座敷飾りに関する伝書に残されました。
将軍家や大名家周辺には、同朋衆が役職としてあり、
茶道や華道などの発展にも寄与しました。
泰平の世、大成したいけばなは身分の上下を超えて広く普及、
江戸時代中期から後期にかけては、庶民のたしなみ、人気の習い事に。
茶の湯とともに、茶席の花のように自由にいける「なげ入れ花」が流行する一方、
3つの枝による不等辺三角形を「天地人」に見立てた格調高い「生花(しょうか)」様式も整えられ、
それが人気を呼び、女性の入門者も増えたとか。
甲府でもいけばなが広く愛好されたのでしょうか。
華道家・是心軒一露(※2)などを甲府に招いた・・という記録も残っています。
(※2)当時、新たな流派が多く誕生する中でも、
草木の性質に従って花を生けることを本義とし、
陰陽五行思想に、いけばなの形式をもとめた流派、松月堂古流が人気を得ました。
是心軒一露は、その創始者。
鳥文斎栄之「風流略六芸 生花」 太田記念美術館
しかし、明治期に入り、近代西欧化の流れの中で、華道をとりまく状況は悪化。
けれども、いわゆる「お雇い外国人」による日本文化への注目や、
華道家による、博覧会などへの積極的な作品出瓶や女学校での教育活動など、
華道を衰退させまいという尽力があり、
華道を衰退させまいという尽力があり、
また、急速な西欧化に対する反動から、立花や生花の見直しが行われ、
伝統的国民文化と位置づけられた華道は、その勢いを回復していきます。
そんな中で生まれた流派が、「日本古流」でした。
日本古流の創始者、角田一忠は明治17年(1884)、群馬県生まれ。
生家は農業のかたわら蚕糸機業を営んでおり、
9才で、「綺麗さび」の美意識の流れをくむ正風遠州流に入門、華道を始めました。
その後、青山御流(せいざんごりゅう)(※3)に入門しました。
(※3)祭事・作法などを取り扱った帝の側近、
園基氏(そのもとうじ)(1210-1282)を祖とする流派。
一忠は、若くして華道の奥義に達するほど、才能に恵まれていたと言われていますが、
火事により、茶花の相伝書を全て失ったことをきっかけに、転々流遊の旅に。
そして、静岡で偶然手にしたのが、
甲斐古流の俳人・山口素堂(1642−1716)が遺した書でした。
ここに何か気づき、悟りがあったのでしょう。
遺蹟を求めて、明治30年(1897)、いよいよ甲府へ。
そこで、江戸千家を創始した茶人、川上不白の高弟で、表千家の大家の後押しを受け、
明治33年(1900)、甲斐古流を再興するに至ります。
「善しとほめ、悪しといさめて 難波江の 学びの海に 問い交わすため」
この心境を理念に、門下を指導、自身もさらなる研鑽を積んで、
草木自然の理を極めんとしました。
そして、こちらが↓一忠が華道修養の末に到達した境地です・・・。
「いけばなは 偽りなきを 道として 己が心を 映すものなり」
・・・
大正3年(1914)の東京進出をきっかけに、「甲斐古流」は「日本古流」と名を改めますが、
今年は「日本古流」が甲府で再興されて122周年の年。
今週末、その創流の地、山梨で、いけばな展が行われます!
日本古流創流122周年 山梨支部いけばな展
会期 令和4年9月24日(土)、25日(日) 9:30〜16:30
(最終日は15:30まで)
会場 信玄ミュージアム内、旧堀田古城園
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