日本列島で気候差はありますが、西から徐々に桜の便りが届きだし、
コロナ感染症の規制緩和も進む中、今年は花見の席も解禁のところが多いようで
ゆっくり花見を楽しまれる方が増えるのではないでしょうか。
ミュージアム隣の武田通り沿いのソメイヨシノは、ただいま6割くらい。
来週までしばらくお天気が崩れますので、せっかく咲いた桜の花もどうなるのか。
感染症予防対策が続き、長らく我慢が続いてきましたので、お天気が回復しましたら
ご家族、友人、学校や仕事の仲間などと親睦を図る場として、この季節だけの
娯楽を節度を持ってお楽しみください。
花を愛でながら、親睦を深める行為は、むろん、戦国の世も同じこと。
先日の記事でもご紹介しましたが・・・
中世の寄合の場こと会所。
もっとも発達したのが、室町時代(1336年ー1573年)の中でも、
かなりざっくりですが、14世紀末から15世紀半ばにあたる時期。
後の金閣寺を建立した足利義満から、
後の銀閣寺の足利義政くらいまでのころで、
室内装飾熱狂時代とも評された時代と重なります。
会所は、遊びを介して、「その時だけ」貴賤同座が叶う場、
政治的でありながら文化的な、ひとつの社会的装置として発達しました。
会所専用の建物が建てられるようになる前は、
帝の寝殿の続き部屋だったり、
中には厩(うまや)や風呂だったり。
どちらかといえばプライベートな空間が、一時的に会所として使用されました。
厩や風呂で遊ぶ(!?)と聞くと驚いてしまいますが、
庭園などに面した場所に建てられた厩には、
馬の世話係が常駐し、いつでも清潔に保たれ、
美しく飾られた馬を見ながら、囲碁などに興じたとか。
風呂も、現代のお風呂場というよりも、温泉施設のイメージでしょうか。
夏、仲間で集まってお風呂に入って汗を流し、お茶を飲んで、酒宴で騒いだり。
こうした会場は、ところ狭しと、中国風に飾られ、遊興空間として演出されて。
会所の重要度がさらに増していくと、専用の建物が建てられるようになり、
足利義満の別荘、後の金閣寺には会所が2軒建てられ、
その後も会所専用の建物の数は増え続けたようです。
足利義政の別荘、後の銀閣寺造営のころ(15世紀後半)には、
会所に、主人の権威を誇示する座敷飾り付きの書院造りが誕生。
しつらえも整備、洗練され、所せましと飾られたものは厳選され、
中国的な要素も希薄になっていきます。
『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』(個人蔵)
こちらは当館特別展示室に展示しているもの。
???なタイトルの記録ですが、
義政の東山御殿内の装飾を同朋衆(能阿弥と相阿弥)が記録したもので、
当時の美術工芸、茶華香道のしつらえを、私たちに伝えてくれる史料です。
義政といえば、金閣寺の華やかさから、わび・さびにシフトするなど、
東山文化を築くなどの功績が認められる一方で、
幼くして将軍となり、有力守護の圧力に抗することもできず、
日本各地を動乱に巻き込んでいく応仁の乱が発生。
その復興にもあまり力を入れなかったという評価も。
いずれにしても、義政の下における文化的洗練とは、
裏を返せば、将軍家の、新たな文化を生み出す力が衰え、
おそらく、内面に向かい、磨き上げることしかできなくなった結果であり、
室町幕府全体の脆弱化を意味するものでした。
そこに、幕府の権威を後ろ盾にせんと、
武家が継承してきた作法に倣いながらも、新たな文化の担い手となったのが、
時に粗野ではあるけれど、勢いのある、
各地を独自に統治し始めた戦国武将たちやその周辺の有力商人たちでした。
信玄公が拠点とした躑躅が崎館では、
富士山を借景とした庭に面した本主殿が、会所として使用されましたが、
その他の建物も、会所の代わりを果たしていたようです。
たとえば、江戸時代に描かれた館の絵図によれば、
敷地内には、大切なご本尊をお祀りする宗教施設が3つあり、
最も大きな「毘沙門堂」は、晩年の信玄公にとって大切な祈りの場でしたが、
毘沙門堂には「金の間」もあり、歌会なども催されたと記されています。
毘沙門堂には「金の間」もあり、歌会なども催されたと記されています。
これは一例で、戦国最強とも畏れられた信玄公の元には多くの客人が訪れ、
そのたびに儀式や饗宴などが催されたとされたようで、
実際、発掘調査では、儀式では不可欠とされた「かわらけ」(素焼きの器)や、
当時高く評価された陶磁器、
中国から輸入されたものや、鎌倉時代の骨董品が出土していて、
武家故実に倣った儀式の後には、
会所での饗宴や遊びによる「もてなし」があったことの裏付けとなっています。
残念ながら、今、私たちが眼にできるのは、その片鱗でしかないけれど、
パズルのピースをはめていくように、戦国大名武田氏の館や、
そこで営まれた暮らしを感じていただければ、こんなうれしいことはありません。
足利将軍の「花の御所」をモデルとした武田氏館は、
天然の要害に建設された建物ではあるけれど、
鬱蒼とした木々に囲まれていたワケではなかったようですし(^_-)-☆
写真のものは全て中国からの輸入陶磁器
作法にのっとり飾られた陶磁器は、
中国からの輸入品や、鎌倉時代に作られた骨董品でした。
火災時に破損したため、まとめて廃棄されたのか、
館の主郭と西曲輪をつなぐ通路跡から複数出土し、
現在は、常時特別展示室にて展示中です。
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