1543年の鉄砲伝来以降、日を増すごとに、戦における火縄銃の役割は大きくなったに違いありません。
・・武田軍といえば「騎馬隊」という、ドラマのイメージが先行しがちですが、
武田氏にとっても、もちろん火縄銃は重要な武器でした。
武田氏にとっても、もちろん火縄銃は重要な武器でした。
十分な訓練、そして火縄銃を戦で駆使するためには、ふんだんな鉄砲玉が不可欠です、が・・
どうも西国に流れがちな鉛を補うために、どうしていたかというと・・
当時、流通するだけで撰銭を促し、経済を混乱させた銅の悪銭。
これを溶かし、、鉄砲玉の原料にしていました!
どこかで聞いたことがある苦肉の策ですが、、
銅銭、銅玉の成分検査などからも、その事実が確認されています。
富士御室浅間神社(富士河口湖町)に伝わる印判状には、
年不詳ながら、鉄砲玉の原料として、悪銭徴収を促す内容が。
(まさに一石二鳥の悪銭と鉄砲玉対策!)
その他、ある商人に対し、鉄砲玉や火薬の原料となる煙硝や鉛に関わる、
関銭を免除したという記録も。
軍役状では、信玄公は、なによりも弓と鉄砲を持参するように、
勝頼公は、長篠の戦い後、鉄砲一丁につき「三百放分支度すべし」と求めています。
長篠では、織田軍の圧倒的な鉄砲による攻撃云々とよく言われますが、
実際のところ、両軍の鉄砲の保有数に大きな差はなく、
違いは、戦い方や鉄砲玉などの原料の調達量にあった(!)という説も。
白い鉛玉は、武田氏館跡から出土したもの。
そして、緑がかった銅玉(写真右下)は、信玄公の弟、武田信繁の伝・屋敷跡から出土したもの。
富士御室浅間神社の印判状の内容を裏付けると同時に、
鉄砲玉の装備を万全にしなくては(!)という、武田氏の腐心が見て取れる・・銅玉なのです。
ご参考まで、伝・武田信繁の屋敷跡はこちら☟
パンフレット「武田城下 ぶらり歴史探訪 ~家臣屋敷地散策コース~」より
赤い➡が銅玉出土した場所。
青い➡が、信玄ミュージアム
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