神さまの依代から、仏さまにお供えする花に・・・
でも、大陸から持ち込まれたものは、もちろん仏教だけではありません。
花を愛でる契機にもなったようなのです。
「昔は、花は観賞用のものではなく、占いの為のものであったのだ。
奈良町時代に、花を鑑賞する態度は、支那の詩文から教えられたのである。」
民俗学者・折口信夫が講演「花の話」(1928年)より。
・・・
ところで、いけばなには発祥の地が2つあるのをご存知ですか。
(その1)でご紹介した、嵯峨天皇が野菊を手折って花瓶に挿したという寺伝を持つ、
京都嵯峨大覚寺。
そしてもうひとつが、聖徳太子ゆかりの寺。京都、頂法寺、通称「六角堂」。
こちらは華道文化を支えてきた池坊の拠点です。
というのも、池坊は代々六角堂の住職を務める家。
仏前に花を供える中で、花の形や姿を探求・・・
そんな六角堂の僧侶の挿す花が評判を呼んだのでしょうか。
寛正3年(1462)、武士の屋敷に招かれた池坊専慶が挿した花が、
京都の人々の間でさらなる評判を呼んで・・・
時代は、幕府は鎌倉ではなく、京都に置かれた室町の時。
平安王朝期と比べれば、争い絶えない時代、
政だけでなく、社会や文化の牽引者も武士となり、
公家+武家+中国文化が中央集権の下で融合し、
その後「わび・さび」という禅宗の影響が色濃い文化が萌芽していく時。
そうした時代の流れを受けて、建築も寝殿中心の貴族の住宅「寝殿造」から、
書斎と居間を兼ね備えた書院を建物の中心にすえた「書院造」へ。
やがて書院は、プライベート空間から、情報交換や交渉の行われる接客用の空間に・・・。
そこでは、間仕切りが発達し、畳が敷き詰められ、
床には身分の上下を明確にした高低差が設けられ。
直轄地が少なく税収が少ない室町幕府の財源は、商業活動や流通にかける税金、
そして日明貿易に支えられました。
大陸からもたらされる「唐物」が高く評価され、それらを飾るための場所として、
床の間の前身、押し板や飾り棚がしつらえられます。
唐物、そして生けられた花を愛でるための空間の誕生です。
花は、供える花から邸宅を飾る花となり、
やがて、座敷飾りとして様式が整えられ「立花」(りっか)が成立。
足利義満の時代から天文年間(1532〜1555)にかけて、
文化の指導的役割を果たした集団、同朋衆からは、立花の専門家が現れましたが、
こうした公家、武家を中心とした立花に対し、新しい立花が新興勢力の町衆の間から生まれます。
それを象徴する出来事が、池坊専慶が挿した花・・・だったのです。
一部の社会層に独占されていたいけばなが、一般の人々との距離を縮めた瞬間となりました。
町衆の心をとらえた池坊専慶の理論を継承したのが池坊専応(1482−1543)。
思想としての「いけばな」を確立し、立花の基本形を記した口伝書を残しました。
口伝書には、美しい花を愛でるだけでなく、草木の風興をわきまえ、
時には枯れた枝も用い、自然の姿を器の上に表現する、と主張されています。
心の中の美しいものを大切に、そしてその形を求める・・・
専応は、高遠な美意識をつづり、悟りの境地をも求めました。
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川端康成も、ノーベル賞受賞記念講演において、専応の口伝を引用しました。
「『ただ小水尺樹をもって江山数程のおもむきをあらわにし、
暫時傾刻のあいだいに千変万化の佳興をもよほす』と池坊専応の口伝にあるのは
『辺水辺おのづからなる姿』を花の心として破れた茶器、枯れた枝にも『花』があり、
そこに花によるさとりがあるとしました。
それは日本の美の心の目ざめであり、長い内乱の荒廃の中に生きた人の心でもありましょう。」
「美しい日本の私」(川端康成著)より
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