天文10年(1541)に父・信虎を追放した信玄は、翌年から信濃侵攻を本格的に開始します。
諏訪地方を領有していた諏訪氏の居城「上原城」(長野県茅野市)は、
諏訪氏陥落後の天文12年(1543)、武田氏に接収され、大改修されます。
(『甲陽日記(高白斎記)』に5月25日に行われた「鍬立」の模様が伝えられています。)
「鍬立」とは、今日の地鎮祭、起工式の鍬入れなどに該当します。
鍬立の後は普請(土木工事や建設工事)が施され、
建築では立柱式、上棟式などの儀礼が行われました。
いわゆる御建前(おたてまえ)のお祝いです。
城や館の建設に伴って行われた一連のセレモニーは、
工事の安全と竣工の無事を土地の神々などに祈願する呪術的な築城儀礼といえます。
信虎によって甲府が開創された時も「鍬立」は執り行われていることからも、
「鍬立」は武田氏にとって重要な行事のひとつであったと考えられます。
(上原城の石碑)
※『甲陽日記(高白斎記)』
古くから「武田氏研究の重要なる資料の一なり」と言われています。
信虎の誕生(1498年)から義信(信玄長男)の名乗りの御祝儀(1553年)まで、
武田家55年間の日記です。「武田氏の全盛とも称すべき期間の珍重すべき文献也」。
武田家重臣・駒井高白斎(こまいこうはくさい)が記録しました。
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