ほうとうと粉の続き 戦国武将をとりこにした茶臼って?

2021-02-25 18:13:47 | 紹介
石臼、家の庭のはじっこあたりに眠っていませんか?

今でこそ、「石臼は昔ばなしのもの!」な方が大半だとは思いますが、
昭和30年代、1950~1960年代までは、まだまだ欠かせないものだったとか。
一般家庭における、石臼の生活必需品歴は長く、だいたい江戸時代から。
石工の技術の発展とともに広まった石臼は、
「粉にすれば、何でも食べられる!」と、度重なる飢饉でも大活躍。

でも、その伝来はさらに古く、推古天皇の頃とされています。
舶来の、高度な技術を有する珍品として扱われていたようです。
急速に広まった戦国時代でも、武士や高級商人など、あくまでも限られた人たちの間で普及した石臼。

とりわけ、鎌倉時代末に伝来した茶臼は、戦国の頃に大成された茶道には不可欠なものに。

あのこまか~な抹茶を挽くには、粉ひき臼以上に高い技術が必要。
粉ひき用の臼と構造も多少異なりますが、上臼と下臼の磨り合わせが何より大事。
茶臼の場合、葉茶は上臼中央の供給口から、上下の臼をつなげる芯の隙間を通り、
上下の臼が重なる真ん中あたりに作られた、約0.5mmの隙間(ふくみ)に入ります。
臼には、一定のパターンで溝が彫られていて、粉は、ふくみから臼の外縁へ押し出されるのですが、
臼の周縁部は平らで滑らかな磨り合わせになり、ここで更に細かく粉砕されます。
※茶臼の中には、周縁まで溝が彫られているものもあるようです。
武田氏館跡や、信玄公の父の弟の居館跡・勝沼氏館跡(甲州市)から出土している茶臼がその例。


武田氏館跡出土の茶臼の一部。
当館特別展示室にて展示中。

茶臼は、茶をたしなむために不可欠なだけでなく、
時代のステイタス・シンボル✨でもありました。

選りすぐりの逸品が望まれる一方で、
名器の模倣に模倣を重ね、形状が崩れてしまっているものもあるようですが、
いずれにしても、多くの武将が求めてやまなかったお道具でした。
戦国時代に名をはせた武将たちの館跡からは、それを証明するかのように、
かなりの確率で茶臼が出土するとか。
武田氏館跡も同様で、館の敷地内の複数個所から茶臼の破片が出土しています。

信玄公の父、信虎公の菩提寺である大泉寺(甲府市)は
信玄公愛用と伝えられる茶臼を所蔵しています。
石を削りとるときの高低差をそのまま残した「荒のみ切り」で、
上下の臼が重なる面以外は、黒い漆が施されました。
その名も「疣磨(いぼまろ)」
実物が見たくなる・・まさに逸品✨です。

大泉寺の情報は甲府観光ナビからどうぞ!

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